第10話 彼女が初めて名前を呼んだ日
その日は、雨だった。
朝から冷たい雨がシルヴァーノ城を包み、東の庭園の猫たちは姿を見せなかった。フィーネとの訓練も中止。特に予定のない、灰色の一日。
俺は城の廊下を歩いていた。考え事をしていた。好感度0の壁のことだ。
計算じゃ超えられない。数字を上げることを目的にした行動は、リゼットに見抜かれる。じゃあどうすれば——
「——よろしいのですか、そのような条件で」
角を曲がったところで、声が聞こえた。
文官ブレンナー氏の声。低く、硬い。
「構いません。交渉の余地はないと判断しました」
リゼットの声。凛としているが、どこか疲れている。
俺は足を止めた。廊下の角の向こう、半開きの書斎の扉から会話が漏れている。
「しかしリゼット様、この条件を呑めば、北部の鉱山の採掘権を——」
「わかっています。ですが、ハルトマン侯爵の目的はそこではない。採掘権と引き換えに、領地の行政権への介入を狙っているのです。一歩譲れば、次は二歩求めてくる」
「…………」
「私が未熟だからこうなるのです。父がいれば、このような交渉にはなりません」
最後の一言は——少しだけ、声が震えていた。
俺は壁に背を預けて、黙っていた。
盗み聞きをするつもりはなかった。だが——足が動かない。
十六歳。
父を亡くして一年。領地を狙う貴族たちの圧力。孤立した政治状況。
それをたった一人で背負っている。
好感度のことなんて、どうでもよくなる瞬間だった。
——いや。
「どうでもよくなった」のではない。好感度を気にしている自分自身が——恥ずかしくなったのだ。
俺は彼女を「攻略対象」として見ていた。好感度を上げるための「ターゲット」として。猫を使い、情報を集め、距離感を計算し——全てが「自分のHP」のためだった。
でも、リゼットは。
生身の、十六歳の少女だ。
誰にも助けを求められず、誰にも弱みを見せられず、たった一人で公爵の重責を背負っている。
その孤独に——俺は何もしていない。
好感度を上げることに夢中で、彼女そのものを見ていなかった。
「——っ」
気づいたときには、書斎の扉をノックしていた。
考えてからの行動ではなかった。体が勝手に動いた。
扉が開く。
ブレンナー氏が怪訝な顔で——そしてリゼットが、氷の表情で俺を見た。
頭上の数字、【-10】。
俺は——
「すみません、通りかかっただけなんですが。……あの、リゼット様」
「何でしょうか」
冷たい声。だが、俺はそこに疲労の色を見た。目の下にうっすらと隈がある。
何を言えばいい? 好感度を上げる最適な台詞は? ——いや。
計算するな。
「……お疲れ、ですよね」
「は?」
「いえ、その——雨の日って、なんか気が滅入りません? 俺、雨の日はすごくダメなんです。前世——じゃなくて、子供の頃から。雨が降ると、なんか全部うまくいかない気がして」
何を言っているんだ俺は。
しどろもどろだ。好感度攻略のテクニックも何もない。ただの世間話にもなっていない。
リゼットの紫の瞳が、無感情に俺を見つめている。
あ、これ下がるやつだ。確実に下がる。何の意味もない独り言をぶつけて、好感度が下がって——
「……そうですね」
——え?
「雨の日は——私も、あまり得意ではありません」
リゼットの声が、ほんの一瞬だけ柔らかくなった。
一瞬だけ。
すぐに元の冷徹な声に戻って、「ブレンナー、書類の続きを」と文官に指示を出す。
好感度を確認する。
【-10】→【-8】
……上がった? 2だけ。でも——上がった。
いや、それよりも。
今、リゼットは俺に「同意」してくれた。
「雨の日は得意ではない」。たったそれだけの言葉。だが——今まで、リゼットが俺に対して「共感」を示したことは一度もなかった。
猫の名前をつけた時も、それは「猫に対する」感情であって、俺個人への共感ではなかった。
でも今——
——雨が嫌いだという、くだらない本音を。
彼女は受け止めてくれた。
計算じゃなかった。
猫も、情報収集も、好感度テクニックも関係ない。ただ——素の言葉で話しかけた。それだけ。
——ああ、なるほど。
これが、0の壁の向こう側への入り口なんだ。
書斎を後にして、廊下を歩く。
窓の外では相変わらず雨が降っている。灰色の空。だが——さっきまでとは違って見えた。
その日の夕方。
夕食の前、廊下でリゼットとすれ違った。
いつものように、彼女は足を止めずに通り過ぎる——はずだった。
だが。
俺の横を通り過ぎる瞬間、リゼットが立ち止まった。
「……レン」
え。
「明日は晴れるそうです。——猫たちも、出てくるでしょう」
それだけ言って、リゼットは歩き去った。
後ろ姿の、プラチナブロンドの髪が揺れる。
——今。
「レン」って。
初めて——名前で呼ばれた。
「アシュフォード殿」でも「あなた」でもなく——「レン」と。
好感度を確認する。
【-5】
8から5に。3ポイント上がった。
……いや。
数字なんて、今はどうでもいい。
名前を呼ばれた。
それだけのことが、こんなにも——
「……おかしいな」
立ち尽くしたまま、呟いた。
「数字は上がってないのに——俺の心臓が、うるさい」
好感度、【-5】。
まだマイナスだ。
数字の上では、彼女は俺のことを嫌いなはず。
でも——
名前を呼んでくれた。
猫が出てくるかもしれないと、教えてくれた。
雨が嫌いだと、共感してくれた。
——数字って、なんだ?
この胸の高鳴りは、好感度の何ポイントに相当するんだ?
答えは出ない。
窓の外で、雨が止みかけていた。雲の切れ間から、かすかに夕焼けがのぞいている。
シルヴァーノ湖の水面が、薄いオレンジ色に染まるのが見えた。
明日は——晴れる。
猫たちが出てくる。
そして——たぶん、彼女も。
好感度【-5】。
まだマイナス。でも——
なんだろう。
数字のことより、彼女の声が頭から離れない。
「レン」。




