第11話 書類の山と氷の背中
転生を自覚してから約二ヶ月。シルヴァーノ城での滞在を始めてからは一ヶ月半。
俺の日常は、すっかり型通りになっていた。
早朝——東の庭園で猫のミスティとショコラに餌をやる。リゼットが散歩で通りかかれば、猫越しに一言二言、言葉を交わす。
午前——フィーネとの剣術訓練。相変わらずボコボコにされるが、体力はだいぶついてきた。
午後——自室で読書。シルヴァーノ領の歴史書を読んだり、この世界の魔法体系について勉強したり。
要するに——暇だった。
好感度は安定している。リゼット【-5】、フィーネ【+63】、城の使用人たちも概ね好意的。HP上限は270前後を維持しており、日常生活には何の支障もない。
だが、リゼットの【-5】は動かない。
猫作戦以降、好感度は-30から-5まで改善したが、そこで完全に停滞している。以前気づいた「0の壁」だ。計算では超えられない。素の自分で向き合わなければ——
とはいえ、彼女との接点が猫と廊下でのすれ違いしかない現状では、向き合うための「場」がない。
そんなある日。
昼食後、城の廊下を歩いていると、ブレンナー文官が書類の束を抱えて小走りに通り過ぎた。その顔は青白く、額に汗が浮いている。
「ブレンナーさん、大丈夫ですか?」
「ああ、レン様。いえ、ええ、大丈夫です。少々立て込んでおりまして——」
彼の頭上の好感度は【+5】。以前より微増している。俺がこの城で問題を起こさない人間だと認識されてきたのだろう。
「何かあったんですか?」
「実は、領地の年次査察報告書の期限が迫っておりまして。例年なら文官三名で処理する量なのですが、一名が病に伏せてしまい……リゼット様お一人が夜を徹して——」
「リゼット様が?」
「はい。昨晩からお休みになっておられません」
——徹夜。
十六歳の少女が、徹夜で書類仕事。
前世の俺が脳裏をよぎった。深夜のオフィス、青白いモニター、疲労で霞む視界——
「手伝います」
言葉は、考えるより先に出ていた。
「は?」
「書類の整理くらいなら俺にもできると思います。読み書きはできますから」
「いえ、しかし、レン様は客人でいらっしゃいますし——」
「客人が暇を持て余しているのも、お屋敷に申し訳ないですから」
ブレンナーは困惑していたが、書類の山を前にした切迫感が勝ったのだろう。「では、単純な転記作業をお願いできますか」と言って、俺を執務室に案内した。
執務室の扉を開けた瞬間——息を呑んだ。
机が三つ並んだ部屋に、書類の山が積まれている。その中央の机に、リゼットが座っていた。
プラチナブロンドの髪がわずかに乱れ、目の下に隈がある。しかし背筋は真っ直ぐで、ペンを走らせる手に迷いはない。
彼女が顔を上げた。
「……何をしに来たのですか」
氷の声。だが、いつもより少しだけ——ほんの少しだけ——温度が低い。疲れているのだ。
頭上の数字、【-5】。
「えっと、書類の整理を手伝おうかと——」
「必要ありません。お戻りください」
ばっさり。
【-5】→【-7】。
下がった。余計なことをするな、ということか。
ブレンナーが横で冷や汗をかいている。
「リゼット様、しかし期限が——」
「わかっています。一人で間に合わせます」
「それは——」
俺はリゼットの手元を見た。ペンを持つ右手の指先が、かすかに震えている。疲労だ。
「……リゼット様」
「何ですか」
「俺は前世——いえ、子供の頃から、書類仕事は得意なんです。転記作業なら邪魔にはならないと思います。お願いします」
沈黙。
リゼットの紫の瞳が、俺をじっと見つめた。何かを測るような視線。
五秒。十秒。
「……ブレンナー」
「はい」
「この者に第二分冊の転記作業を割り当てなさい。ただし——」
氷の瞳が俺を射抜いた。
「一字でも間違えたら、即刻退室していただきます」
「はい!」
好感度、【-7】→【-5】。元に戻っただけだが——入室を許可された。それだけで十分だ。
俺は割り当てられた机に座り、第二分冊——領地の農作物収穫量の集計表——の転記を始めた。
前世の事務処理能力が、ここにきて役に立つとは思わなかった。エクセルこそないが、数字を正確に転記する作業は前世の日常業務そのものだ。
黙々と作業する。
一時間が過ぎた。リゼットは一度も俺の方を見なかった——少なくとも、俺が気づいた限りでは。
二時間。最初の分冊の転記が終わった。ブレンナーに確認してもらうと、彼の目が丸くなった。
「……一箇所の誤りもありません。しかも速い。レン様、失礼ですが、以前に事務仕事のご経験が?」
「まあ、ちょっとだけ」
六年間ほどな。前世で。
ブレンナーの好感度、【+5】→【+12】。大幅上昇。有能さは好感度に直結する。
三時間目。
リゼットがふと手を止めた。
「……ブレンナー。彼の作業に誤りはありましたか」
「一つもありません、リゼット様」
「……そうですか」
それだけ言って、リゼットは再びペンを走らせた。
好感度チェック——
【-5】→【-3】
2ポイント上がった。
仕事ぶりを認めてもらえた——のだと思う。リゼットにとって「有能さ」は信頼の最低条件なのだろう。感情ではなく、能力で示す。それが彼女への唯一の入り口。
日が暮れた。
窓の外が茜色に染まる頃、ようやく書類の山に目処がついた。
「……本日の分は以上です。ブレンナー、明日の分を準備しておきなさい」
リゼットが椅子から立ち上がった。長時間の着座で体が軋んでいるはずだが、表情は変わらない。
——ただ。
部屋を出ていく間際、リゼットが立ち止まった。振り返らないまま。
「……助かりました」
小さな声だった。俺以外には聞こえなかったかもしれない。
振り返ることなく、リゼットは去った。
好感度——
【-3】。変わっていない。
けれど。
「助かりました」。
あの氷の公爵令嬢が、お礼を言った。
好感度は動かなくても——この一言の重さを、俺は知っている。




