第12話 数字の読める男
翌日から、俺はリゼットの執務室に通うようになった。
最初は「今日だけ」のつもりだった。だがブレンナーが「年次査察報告書はあと五日分あります」と泣きそうな顔で言うので、断る理由もなかった。
何より——リゼットが拒否しなかった。
初日こそ「必要ありません」と突き返されたが、二日目は無言で机を示された。三日目は、俺が部屋に入る前に自分用の茶と一緒に俺の分の茶も用意されていた。
——いや、あれはブレンナーが気を利かせただけかもしれない。リゼットの指示かどうかは不明だ。
だが好感度は、確実に動いていた。
二日目終了時:【-3】→【-2】
三日目終了時:【-2】→【0】
——ゼロ。
ついに、好感度がゼロに到達した。
あの「0の壁」を、超えた——いや、正確にはゼロちょうどだ。壁の上に立っている状態。プラスにはまだ踏み込めていない。
だが、マイナスではなくなった。それだけで胸が熱くなる。
ゼロは「無関心」を意味する数字だ。好きでも嫌いでもない。だけど——リゼットの場合、「無関心」には到底見えない。
四日目。
俺が農作物の収穫量データを集計していると、リゼットが不意に声をかけてきた。
「レン」
名前で呼ばれるのにも、少し慣れてきた。心臓は跳ねるが。
「はい」
「北部三村の小麦収量が、昨年より一割減少しています。原因に心当たりは?」
——俺に聞くのか。
驚いたが、手元の書類を確認した。ここ数日、大量の数字を転記する中で、領地全体のデータが頭に入りつつあった。
「えっと……北部三村は灌漑水路がシルヴァーノ湖の支流に依存しています。今年の春先は雨が少なかったと聞きましたので、水量不足で作付面積が——」
「減ったのは作付面積ではありません。反収が落ちています」
「反収……あ」
もう一度データを見直す。確かに、作付面積はほぼ同じなのに一反あたりの収穫量が下がっている。
「だとすると、土壌の問題か、種の問題か——いえ、連作障害の可能性はありませんか。北部三村は三年連続で小麦を——」
リゼットの手が止まった。
「……そこに気づきますか」
頭上の数字——
【0】→【+3】
プラスに転じた。
ついに。ついにプラスだ。
好感度がプラスの領域に入った瞬間、体の奥から力が湧いてくるのを感じた。HPの上昇を実感する——が、今はそんなことはどうでもよかった。
「連作障害については、私も昨夜考えていたところです。来年度は輪作体系を導入する提案書を——」
リゼットはそこで言葉を切り、こちらを見た。紫の瞳に、微かな光が宿っている。
「……あなたは、数字を読めるのですね」
「え?」
「書類を写すだけでなく、数字の意味を読める。この城にそれができる人間は——多くありません」
それは褒め言葉——なのだろうか。リゼットの顔は相変わらず無表情だが、声のトーンがわずかに柔らかい。
「ブレンナーは有能ですが、政務の判断を任せられる立場にはない。私には——」
そこで、リゼットは口を閉じた。
「相談できる相手がいない」——そう言おうとしたのだと思う。だが、それを口にすることは、弱さを見せることと同義だ。
俺は何も言わなかった。
ただ、手元の書類に目を戻して、北部三村のデータの分析を続けた。
——何も言わないことが、今は正解だと思った。言葉で踏み込むのではなく、行動で示す。隣にいて、同じ数字を見て、同じ問題を考える。
それだけでいい。
五日目。
年次査察報告書がすべて完成した。ブレンナーは涙ぐんでいた。
「レン様のおかげで、三日も前倒しで完了いたしました……」
ブレンナーの好感度、【+12】→【+22】。この人は感情が素直でわかりやすい。
リゼットは完成した報告書を確認しながら、淡々と言った。
「ブレンナー。明日から定例の領務会議が始まります。レンにも同席を許可します」
「は——レン様に、ですか?」
「転記係としてではなく、議事の内容を把握させるために。……彼の分析は、使えます」
振り返って、俺を見た。
「構いませんか」
「はい。喜んで」
リゼットの好感度、【+3】→【+5】。
小さな上昇。だが——意味は大きい。
彼女が俺を「使える人間」と評価した。感情ではなく、能力で。
前世の俺なら、こんな評価方法に寂しさを覚えたかもしれない。「使える」のと「好かれている」のは違うと。
でも——リゼットにとって、能力を認めることは信頼の第一歩なのだ。この人は感情から入れない。まず頭で理解し、それから心が追いつく。
順番が違うだけ。
それを知っているだけで——俺には十分だ。
自室に戻って、天井を見つめた。
リゼットの好感度、【+5】。
プラス5。
たった5だが——あの-50から考えれば、55ポイントの旅路だ。
猫で20。書類で10。残りは——名前を呼ばれた日やら、雨の日の会話やら、小さな積み重ね。
一つ一つは些細でも、積み上がれば、壁すら超えられる。
「……次は、領務会議か」
公爵令嬢の隣で、領地経営の議論に参加する。前世のサラリーマン経験と、この世界の知識を掛け合わせて、価値を示す。
——よし。
好感度を上げるためにやっているはずなのに、不思議と今は、それとは別の動機が胸の中にある。
彼女の力になりたい。
好感度とか、HP上限とか、そういうのとは関係なく。
——これは、良い傾向なのか、まずい傾向なのかは、よくわからないが。




