第55話 数字の向こう側
ある晴れた朝。
暁の庭園のベンチで、リゼットとお茶を飲んでいた。
ミスティが膝の上で丸まり、ショコラが足元で寝ている。赤い薔薇の苗が——セラフィーナが分けてくれたものだ——庭の一角に植えられ、小さな蕾をつけていた。
穏やかだ。
数ヶ月前までは、好感度の数字に追われて生きていた。HPが下がらないように。死なないように。嫌われないように。
今は——好感度を「見ない」ことを選べるようになった。見たい時だけ見る。見たくない時は見ない。
そして——最も大切な人の好感度は、見ないでいる。
「レン」
「うん」
「聞きたいことがあります」
「何?」
「あなたの——あの能力。人の感情が数字で見えるという力。いつから持っていたのですか」
「……数ヶ月前、あの朝から。突然、周りの人間の頭上に数字が浮かんで見えるようになったんだ。最初は、自分の頭がおかしくなったのかと思ったよ」
「ずっと——一人で、抱えていたのですね」
「うん。誰にも言えなかった。言ったら変な目で見られると思って」
「……辛かったでしょう」
「辛かった。でも——この能力がなかったら、君に出会えなかった。好感度-50の君に、近づく勇気を持てなかった」
リゼットの目が——柔らかくなった。
「-50——最初はそんなに低かったのですか」
「そうだよ。初対面で-50。城中で最低値」
「……それなのに近づいたのですか」
「HPが死にかけてたからね。好感度を上げないと生き残れなかった」
「なるほど。最初の動機は——生存だったのですね」
「うん。最初は。でも途中から——」
「途中から?」
「君のことが気になったんだ。好感度がマイナスなのに——手は震えてるし、耳は赤くなるし、猫を見ると目が光るし。数字と行動が全然合わないから——数字の裏に、何があるのか知りたくなった」
リゼットが目をそらした。赤い耳。
「あの頃から——外から見えていたのですか」
「全部見えてた。君は隠すのが下手だよ」
「……失礼なことを言いますね」
「事実だから」
沈黙。風が花の匂いを運んでくる。
「レン」
「うん」
「あなたは——これから先も、私の好感度を見ないのですか」
「見ない」
「なぜ——改めて聞きますが——」
「君の気持ちは、君の口から聞きたいから」
リゼットの唇が震えた。
「……では」
リゼットが俺の方に向き直った。紫の瞳が——まっすぐに、俺を見つめている。
「改めて——言います」
「うん」
「私は——あなたが好きです。レン・アシュフォード。最初は嫌いだった。それから怖かった。それから——わけがわからなくなって。でも、あなたが私を庇って血を流した時——やっとわかりました」
「…………」
「あなたを失いたくない。あなたの隣にいたい。……もう、数字で見える私の心なんて、どうでもいい。私はただ、私を見つめるあなたの瞳を——見ていたい」
涙は——今日はこぼれなかった。代わりに——笑っていた。
氷の公爵令嬢が。仮面をつけずに。陽の光の中で。
笑っていた。
「俺も好きだよ。リゼット」
「知っています」
「知ってるのか」
「あなたは隠すのが下手ですから」
「……お互い様だな」
二人で笑った。
ミスティが「にゃあ」と鳴いた。
好感度は見ない。見なくていい。
この笑顔を見ていれば——他に何も要らない。
かつて前世で、最期の瞬間に願った。「数字で人の気持ちがわかれば、もっと楽だったのに」。
数字は手に入った。好感度が見えるようになった。
だが——答えは違った。
数字で気持ちがわかっても、楽にはならなかった。数字は態度を映すだけで、心の全てを映しはしなかった。
本当に大切なことは——数字の外にあった。
手の温もり。声の震え。耳の赤さ。不器用な笑顔。
前世の俺へ。答えを教えるよ。
人の気持ちは——数字じゃ、わからない。
でも——数字がなくても、わかる方法がある。
目を見ること。手を取ること。声を聞くこと。隣にいること。
それだけで——十分だよ。




