第40話 数字がなくても、わかることがある
ヴィクトールが去った夜。
暁の庭園。あの茶会をした場所。指が触れた場所。「忘れなさい」と言われた場所。
俺はレイクミントティーを二杯分用意して、ベンチで待っていた。
リゼットが来た。
正装ではなく、薄紫のワンピース。髪を下ろしている。あの茶会の時と同じ格好だ。
ミスティが足元に寄ってきて、「にゃあ」と鳴いた。リゼットは——人前にもかかわらず——しゃがんでミスティの頭を撫でた。
「……触ってますね」
「……今日は、特別です」
ベンチに隣同士で座った。
レイクミントティーを手渡す。リゼットが一口含んだ。
「……少し、濃い」
「リゼット様好みの濃さです」
「…………ええ」
沈黙。
だが——気まずくない。あの頃とは違う。沈黙が心地よい。
「レン」
「はい」
「今日——殿下の前で。私、言ってしまいました」
「何をですか」
「……大切な人がいる、と」
「聞きました」
「……恥ずかしい」
リゼットの耳が赤い。首元まで赤い。だが——目は正面を向いている。逃げていない。
「誰のことだか——聞かないのですか」
「……聞かなくてもわかりますから」
「あなたは——本当に……っ」
リゼットが俺を見た。紫の瞳に、月光——いや、今夜は新月に近い。光はほとんどない。だが、彼女の瞳の奥が、暗闇の中でほのかに光っている。
「レン。あなたに、聞きたいことがあります」
「何でも」
「あなたの——あの『人の感情が数字で見える力』。私の感情は——今、見えていますか」
心臓が跳ねた。
彼女は——覚えていた。あの時の発言を。半端に伝えた能力のことを。
「見えていません」
「……見えない?」
「はい。リゼット様の感情だけ——見えなくなりました」
「それは——私が嫌われているということですか」
「逆です」
リゼットが首を傾げた。
「リゼット様のことが大切すぎて——数字で測りたくなくなったんです。だから、自分で手放しました」
沈黙。
「……手放した」
「はい。もう、リゼット様のことを数字では見ない。見なくていいと——心が、そう決めたみたいです」
リゼットの目が——潤んだ。
「それは——」
「数字がなくても、わかることがあるんです」
「……何がわかるのですか」
「リゼット様が今——泣きそうで、嬉しくて、恥ずかしくて、怖くて——それでも隣にいてくれていること」
「…………」
「それだけわかれば——数字なんて、いりません」
リゼットの涙がこぼれた。指で拭おうとしたが——間に合わなかった。頬を伝って、顎から落ちる。
「……泣いていません」
「泣いてます」
「泣いて——ませんっ」
同じやり取り。病室の時と同じ。でも——今度は、笑いながら泣いていた。
「あなたは——本当に、馬鹿です」
「知ってます」
「好きです」
——え。
「好き——と、言いました。今」
リゼットの顔が——信じられないくらい赤い。耳も首も全部赤い。目は潤んだまま、だが——まっすぐ俺を見ている。
「私は——あなたが、好きです。レン・アシュフォード」
好感度は見えない。
でも——見えなくていい。
見えなくても——わかる。
「俺も——好きです。リゼット」
言えた。
前世では一度も言えなかった言葉。人の気持ちがわからなくて、自分の気持ちもわからなくて、どう伝えればいいかわからなくて——結局、誰にも言えなかった。
だけど——今、言えた。
リゼットの手が、俺の手を取った。今度は震えていない。しっかりと、温かい手。
「……このまま、少しだけ」
「はい」
「手を、離さないでください」
「離しません」
湖の向こうから、風が吹いた。花の匂いがする。ミスティが足元でゴロゴロ鳴いている。
好感度は見えない。
HPがいくつなのかも、もう計算していない。
ただ——隣に、大切な人がいる。
それだけが、全世界で一番確かなことだった。




