第4話 子爵家の次男、社交界デビュー
使用人好感度改善計画を始めて約二週間。
成果は、悪くなかった。
マルタさん:-20 → +10
トーマス:-15 → +15
ルドルフ爺さん:+5 → +20
洗濯係のリーナさん(ようやく名前を覚えた):-10 → +5
料理補助のベルタ:-8 → +8
厩番のオスカー:-12 → +5
掃除係のハンナ:-10 → +5
合計:+68
二週間前はマイナス90だった合計が、プラス68。実に158ポイントの大改善だ。
HP上限も体感でかなり回復した。階段を上っても息切れしなくなったし、膝の傷もきれいに塞がった。風邪を引いても死ぬ心配はなくなった——たぶん。
何をしたかと言えば、特別なことは何もない。
毎朝ルドルフ爺さんの庭仕事を手伝い、午後はマルタさんの料理を手伝い、トーマスには給仕の後に「ありがとう」を欠かさず言い、リーナさんの洗濯物を干すのを手伝い、オスカーには馬の世話を教わった。
要するに、「普通に」コミュニケーションを取っただけだ。
前世でできなかったことが、好感度が見えるおかげでフィードバックの速度が桁違いに速い。相手が喜んでいるのか嫌がっているのかが即座にわかるから、空回りが減る。
——好感度が見えるって、素晴らしい。
前世の俺に教えてやりたい。人に好かれるのに必要なのは、才能でも美貌でもなく、ただ「相手を見ること」なんだと。
などと感慨に浸っていた俺のもとに、一通の招待状が届いた。
「シルヴァーノ公爵家主催の春の社交会……?」
父エドムント子爵から「代理で出席しろ」と簡潔な手紙が添えられていた。父は領地経営が忙しく、社交の場に出る暇がないらしい。兄カーツは王都で騎士の任務中。
つまり、アシュフォード子爵家の代表として、俺が出るしかない。
……社交会。
大勢の、見知らぬ人間が集まる場所。
前世のパーティーや会社の懇親会を思い出して、胃がキリッと痛んだ。
だが——考えようによっては、これはチャンスだ。
使用人たちとの関係改善で好感度合計は+68。安定はしてきたが、まだ心もとない。もし強い影響力を持つ人間——たとえば貴族や有力者から好感度を得られれば、HPの底上げになる。
リスクとリターン。
大勢の前に出れば、好かれる可能性もあるが、嫌われる可能性もある。好感度マイナスの人間が一気に増えたら、HP上限が削られて——
いや、やめよう。考えすぎだ。
行くしかない。父の命令だし、社交界に顔を出さなければ今後の人間関係構築もままならない。
当日。
マルタさんが用意してくれた正装(彼女が好感度+10になってから、仕事の丁寧さが格段に上がった。やっぱり好感度って大事だ)に身を包み、馬車でシルヴァーノ公爵領の領都ラウルシュタットへ向かった。
湖畔に面した美しい石造りの街。シルヴァーノ城は丘の上に建っており、春の日差しを受けて白壁が輝いていた。
城の大広間に足を踏み入れた瞬間——
目が、眩んだ。
文字通り。
視界を埋め尽くす、おびただしい数の「数字」。
大広間には少なくとも百人以上の貴族や随行者がいた。その全員の頭上に、好感度の数値が半透明の光となって浮かんでいる。
「うっ……」
情報量が凄まじい。視界に数字が洪水のように溢れ返り、一瞬、眩暈がした。
だが——その数字の大半は、ある一つの数値に収束していた。
【0】
ゼロ。ゼロ。ゼロ。ゼロ。ゼロ。ゼロ。ゼロ——
どこを見ても、ゼロ。
たまに【+1】や【+2】が混じるが、ほぼ全員が【0】だ。
……当然か。
俺はアシュフォード子爵家の次男。この場に集まった貴族たちにとって、俺は「知らない人」だ。好感度以前に、認識すらされていない。
だが「0」はまだいい。嫌われてはいない。ただ——
無関心。
百人以上の人間に囲まれながら、誰の心にも引っかからない透明人間。
前世を思い出した。
会社の飲み会で、隅っこに座って誰ともまともに話せなかった日のこと。存在しているのに、存在していない感覚。
あの時と違うのは——今は、その「無関心」が数字で見えるということだ。
ゼロの海に溺れそうになる。
「大丈夫だ。ゼロはゼロ。マイナスじゃない」
自分に言い聞かせて、会場を歩き始めた。
まずは軽く挨拶をして回ろう。名前を覚えてもらうところから——
「あら、アシュフォード家の方? お父様はお元気かしら」
ふくよかな中年の女性貴族が話しかけてきた。頭上には【+3】。父の知り合いらしく、わずかだがプラスのスタートだ。
「はい、父は元気です。本日は代理で参りました」
「まあ、若くてハンサムね。お名前は?」
「レン・アシュフォードです」
「よろしくね、レン様」
【+3】→【+5】。会話しただけで微増。やはり対面でのコミュニケーションは好感度を動かしやすい。
それから一時間ほど、俺は可能な限り多くの人間に挨拶をして回った。
結果——
好感度【0】→【+1〜5】の変動が約三十人。大きな上昇はないが、少なくともマイナスにはなっていない。
HP上限は底上げされた。三十人分の+1〜5は、合計でプラス60〜70ほど。使用人たちの+68と合わせて好感度合計は+133。基礎HP100を加えると、HP上限は233前後になっているはずだ。
……悪くない。基礎HPだけなら100だったが、好感度の上積みで一般的な普通の人間に近いレベルまで回復した。
このペースなら——
「皆様、お静かに願います」
ホールの奥から、凛とした声が響いた。
ざわめきが波のように引いて、全員の視線がホールの入り口に集まった。
白と紺の礼装に身を包んだ少女が、堂々とした足取りで歩いてくる。
プラチナブロンドの髪が、シャンデリアの光を受けて銀糸のように輝く。深い紫の瞳は、この大広間を見渡しながらも、誰の目にも止まらない。
リゼット・フォン・シルヴァーノ。
シルヴァーノ公爵家の当主にして、この社交会の主催者。
——弱冠十六歳にしてこの威圧感。
俺をはじめ、会場にいる全員がその佇まいに息を呑んだ。
そして俺の目には——彼女の頭上に浮かぶ数字が見えた。
リゼット・フォン・シルヴァーノの、俺に対する好感度。
【0】
ゼロ。他の貴族たちと同じだ。当然、俺のことなど知りもしない。
——だが。
彼女の存在が、後に俺の人生を根底から揺るがすことになる。
この時の俺は、まだ知らなかった。




