第34話 見えなくても、見ている
好感度が消えてから一週間。
不思議なことに——俺は、以前より人の気持ちがわかるようになっていた。
リゼットに関してだけではない。フィーネやブレンナーに対しても、数字を見る前に「たぶんこうだろう」と推測する癖がつき——その後に好感度をチェックすると、推測がほぼ合っていることが多い。
数字に頼りすぎていた頃は、数字を見ることが「答え合わせ」だった。だが今は——自分の推測が「答え」で、数字は「おまけ」になりつつある。
もっとも、リゼットに関しては答え合わせすらできないが。
ある夜。
執務室で遅くまで作業した後、リゼットと二人きりになった。ブレンナーは先に帰っている。
リゼットが窓際に立ち、シルヴァーノ湖を見下ろしていた。月光が湖面に白い道を描いている。
「……綺麗ですね」
「ええ」
沈黙。だが、気まずくない沈黙だ。
「レン」
「はい」
「あなたには——人の感情を読む力がある、と以前言いましたね」
心臓が跳ねた。あの日——リゼットに冷たく突き放された夜に、半分だけ打ち明けたことだ。
「はい……子供の頃からの、変な感覚です」
「最近——その力が、変わったのではありませんか」
「え?」
リゼットの紫の瞳が、月光に照らされて静かに光っていた。
「以前のあなたは——人を見る時、どこか『何かを読み取ろう』としている目をしていました。観察しているような。測定しているような」
「…………」
「でも最近は——ただ見ている。読み取ろうとせず、ただ——見ている」
見抜かれている。
「数字を読んでいた」時と「数字なしで見ている」時の、目つきの違いを——リゼットは感じ取っていたのだ。
「……俺は、以前は数字ばかり見ていました」
「数字?」
「人の感情を——数字で測ろうとしていたんです。プラスかマイナスか。上がったか下がったか。それだけで人を判断して——大事なものを見落としてた」
リゼットは黙って聞いていた。
「でも最近——ある人の感情が、数字では測れなくなりました」
「……誰のですか」
「リゼット様の」
沈黙。
月光が、二人の間に降り注ぐ。
「あなたの感情は——複雑すぎて。怒っているのか喜んでいるのか、好意なのか敵意なのか、全部が混ざってて——数字じゃ、表現できなくなったんです」
「…………」
「だから俺は——数字を見るのをやめました。もう、あなたの数字は見ません」
嘘ではない。見えないのだから。
「代わりに——あなた自身を見ます。声を聞きます。手を見ます。目を見ます」
リゼットの唇が震えた。
「それで——わかるのですか。私のことが」
「全部はわかりません。でも——少しは」
「……何がわかりますか」
「今——リゼット様は、不安で、嬉しくて、恥ずかしくて、怖い。全部同時に」
リゼットが息を呑んだ。
「……当たっています」
「やった」
「……馬鹿」
だが——声に怒りはなかった。どこか柔らかい、呆れたような声。
窓の外で、湖が光を揺らしていた。
「レン」
「はい」
「もし……もし私の心が、最初からすべて、あなたに数字として暴かれていたとしたら……。私の醜い拒絶も、冷たい本心も、何一つ隠せずに」
「…………」
「あなたは、それでも——私に近づこうとしてくれましたか?」
その質問に——答えは一つしかない。
「近づきました」
「数字がどんな値でも?」
「……正直に言えば、怖くて逃げたかもしれません。何度か。-50の時とか、-40の時とか」
「でも——」
「でも、逃げなかった。数字が怖くても——あなたの手が温かかったから」
リゼットが——目をそらした。唇を噛んでいる。耳が赤い。
好感度は見えない。
だけど——
彼女が俺の方に、一歩だけ近づいたのは——見えた。
「……月が綺麗ですね」
リゼットが窓の外を向いたまま、小さく言った。
その言葉の意味が——前世の記憶をくすぐった。
月が綺麗ですね。夏目漱石のI love you。
まさか——いや、この世界に夏目漱石はいない。偶然だ。
偶然だけど——
「……ええ。本当に、綺麗です」
俺は、月ではなく——リゼットの横顔を見ながら、そう答えた。




