第33話 数字のない世界
リゼットの好感度が消えて——三日が経った。
俺は回復し、シルヴァーノ城に戻った。左肩はまだ完治していないが、日常生活には支障がない程度だ。
問題は——別にある。
リゼットの好感度がオーバーフローして以降、表示が戻らない。
他の人間の好感度は普通に見える。フィーネは【+70】。ブレンナーは【+25】。使用人たちもいつも通りだ。
リゼットだけ——空白。
考えてみれば当然かもしれない。好感度は「態度×意識」で計算される数値だ。リゼットの感情があまりにも激しく揺れ動いた結果、計算処理が破綻した。
一度破綻したシステムが、自然に復旧するかどうかは——わからない。
つまり——リゼットに対してだけ、俺は「普通の人間」に戻ったのだ。
数字が見えない。彼女が何を考えているかわからない。態度から推測するしかない。
——こんなの、前世と同じだ。
前世の俺が一番苦手だったこと。人の感情を読むこと。
怖い。不安だ。好感度の数字に依存していた分、それがなくなった恐怖は大きい。
だが——。
あの病室で、泣いているリゼットの顔を見た時の自分を思い出す。
数字がなくても、わかった。
わかったのだ。
今ここで試されている。数字に頼らず、自分の目で人を見る覚悟が本物かどうか。
——よし。
覚悟を決めた翌朝。
執務室に向かった。いつもと同じように。
リゼットはいつもと同じ席に座り、いつもと同じように書類をめくっていた。
「おはようございます」
「……おはようございます」
氷の声——ではなかった。いつもの冷たさが、少しだけ和らいでいる。
好感度は見えない。だが——声のトーンと、こちらを見る視線の角度と、ペンを持つ手の力加減から、俺は推測した。
たぶん——プラスだ。大きなプラスではないかもしれないが、少なくともマイナスではない。
以前なら好感度の数字を見て安心した場面だ。今は——自分の推測を信じるしかない。
「肩は大丈夫ですか」
「はい。もう痛みもほとんど——」
「無理はしないでください」
——え。
リゼットが、俺の体調を気遣った。明確に。ストレートに。「問題ありません」でも「下がりなさい」でもなく——「無理はしないでください」。
数字が見えないから確信はないが——これは、好感度が高い状態の発言だ。少なくとも以前の氷の対応とは全く違う。
「ありがとうございます」
「……別に」
リゼットが目をそらした。耳が——赤い。
好感度は見えない。でも耳は見える。
——うん、大丈夫だ。耳が赤ければ、それでいい。
午後。
仕事の合間に、リゼットがふいに言った。
「レン」
「はい」
「仮面舞踏会の暗殺者について——調査結果が出ました」
「……誰の差し金ですか」
「ベルクシュタイン男爵の配下の者でした。ヴィクトール殿下が直接関与した証拠はありませんが——」
「間接的には、ですね」
「ええ」
リゼットの目が鋭くなった。
「殿下はこの件について遺憾の意を表明し、犯人の厳罰を約束しました。しかし——」
「ポーズですね」
「はい。裏では圧力が強まっています。婚約を再度打診する書簡が三通。領地の交易路に対する関税引き上げの示唆。シルヴァーノ湖の水利権の再交渉——」
「経済的に追い詰めるつもりですか」
「そのようです」
リゼットの声は冷静だったが——指先が、無意識にペンを回している。緊張している。不安がある。
数字は見えない。だが——彼女の仕草で読める。
かつて数字に頼っていた時は、仕草を見落としていた。数値が+5だから大丈夫、-10だから危険、と数字だけで判断していた。
今は——数字がないから、彼女自身を見る。
皮肉なものだ。数字が消えたことで、俺はようやく「目の前の人間」をちゃんと見るようになった。
「リゼット様。経済的圧力への対策は——」
「いくつか案はあります。ですが——」
リゼットが俺を見た。
「あなたの知恵を借りたい」
正面から。まっすぐ。「手伝ってもらう」でも「指示する」でもなく——「知恵を借りたい」。
対等の関係を示す言葉。
「喜んで」
リゼットの唇が——わずかに、ほんのわずかだけ、上がった。
好感度は見えない。
でも——あの微笑みは、見えた。其れで十分だ。




