第25話 あなたは私に近づくべきではない
翌朝。
リゼットからの呼び出しがあったのは、日の出直後だった。
場所は——暁の庭園。あの茶会をした場所。
朝霧の中、リゼットは白と紺の正装で立っていた。背筋は真っ直ぐで、表情は完全な「氷」だ。
ミスティが足元で丸まっている。ショコラの姿はない。
「レン」
「はい」
「昨夜、考えました」
好感度チェック——
【+10】。昨日のまま。
嫌な予感がした。
「ヴィクトール殿下の求婚について——保留としました。現時点では受けることも断ることもしません」
「保留……」
「ええ。ただし——」
リゼットの紫の瞳が、俺を見た。静かに。真っすぐに。
「条件があります」
「条件?」
「あなたは——この城を離れてください」
——え?
「レン。あなたがこの城にいることが——あなた自身の危険になる可能性が出てきました」
「危険って——」
「ヴィクトール殿下は、あなたの存在を除こうとしています。最初は穏便に遠ざけようとするでしょう。ですが、それが叶わなければ——もっと直接的な手段を」
リゼットの声は事務的だ。報告書を読むような、感情を消した声。
「あなたが私の傍にいることで、殿下の目に留まった。もし私があなたを傍に置き続ければ——あなたは政治的な標的になる。子爵家の次男に対する圧力は、子爵家そのものへの圧力になりかねない」
「そんなの——」
「事実です。昨夜、殿下から遠回しに忠告がありました。『レン殿の安全のためにも、アシュフォード家にお帰りいただいた方がいいのでは』と」
ヴィクトールが。昨夜の俺との会話のあと——リゼットにも同じことを言ったのか。
「だからこそ——」
「リゼット様」
「——あなたは私に近づくべきではない」
その一言が——胸に刺さった。
好感度——
【+10】→【-10】
一気に20ポイント暴落。
【-10】。この世界に来たばかりの頃の「0の壁」の水準に逆戻り。
だが——今回の暴落は、以前とは意味が違う。
以前の暴落は「照れ隠し」だった。感情が動いたせいで、態度が逆方向に振り切れる。
今回は——
「あなたを守るために突き放す」。
態度は冷徹。突き放しの言葉。だが——その裏にある感情は。
「リゼット様」
「何ですか」
「俺は——離れません」
「聞こえませんでしたか。あなたは——」
「聞こえました。でも、離れません」
リゼットの眉がわずかに動いた。怒り——ではない。困惑? 動揺?
「なぜですか。あなたには——この問題に関わる義理はない」
「義理じゃないです」
「では何ですか」
「あなたが一人で背負おうとしているからです。全部。いつも。一人で」
声が震えた。自分の声が。
「ヴィクトールの脅しが怖くないのかって言われたら——正直、怖いですよ。子爵家の次男には大きすぎる問題だってわかってます」
リゼットは黙っていた。その目は——氷のようでいて、どこかが揺れていた。
「でも——あなたが『近づくな』って言うたびに、俺は思うんです。この人は——本当は、近づいてほしいんじゃないかって」
沈黙。
朝霧が、二人の間を流れていく。
「……買いかぶりです」
「かもしれません」
「私はあなたを守ろうとしているのです」
「知ってます」
「では——なぜ」
「好感度の話をしてもいいですか」
リゼットの目が、わずかに見開かれた。
「俺には——人の気持ちが数字で見える。子供の頃からの、変な感覚です」
半分は嘘だ。子供の頃からではない。でも——今、この人に本当のことを伝えなければならない。
「リゼット様の数字は——今、マイナスを示しています。俺を嫌っている数字です」
「…………」
「でも——数字だけじゃ、わからないことがある。数字は態度を映すから。声が冷たければ数字も冷たくなる。でも——」
俺はリゼットの手を見た。固く握りしめられた手。白くなるほど力が入っている。
「手が震えてるじゃないですか」
リゼットが、息を呑んだ。
「突き放す言葉を言いながら——手が震えてるんです。それは——嫌いだからじゃない。怖いからでしょう。俺が傷つくのが。俺が巻き込まれるのが」
「——やめなさい」
「俺はもう数字だけを見るのはやめます。数字は参考にしますけど——あなたの手と、声と、目を見ます。そっちの方が——本当を映してるから」
好感度——
【-10】→【-20】→【-30】→【-40】
暴落。凄まじい速度で暴落している。
だが——。
リゼットの目から、涙がこぼれた。
一筋。
氷の公爵令嬢が——人前で、初めて涙を流した。
好感度は【-40】。数字は最悪だ。
でも涙は——嫌いだから流すものじゃない。
「——頼むから」
リゼットの声が、初めて——震えた。
「頼むから……離れて。あなたまで——失いたくない」
「失いたくない」。
好感度-40の人間が使う言葉じゃない。
数字は嘘をついている。態度は嘘をついている。
でも——涙だけは、嘘をつけない。
「……離れません」
「っ——」
「離れませんよ、リゼット」
初めて、「様」をつけずに呼んだ。
リゼットの体が震えた。涙をぬぐおうとして——手の中のハンカチが見えた。
俺のハンカチ。あの日の。
「忘れなさい」と言いながら——ずっと持っていた。
好感度は——
【-40】。変わらない。
……いい。変わらなくていい。
数字が-40でも、-100でも。
あなたが泣いているなら——俺は、ここにいる。
リゼットはそれ以上何も言わなかった。涙を拭い、背筋を正し、氷の仮面を被り直した。
「……ご自由に」
それだけ言って、城に戻っていった。
その背中は——初めて、揺れていた。凛とした歩みが、微かに乱れていた。
朝霧が晴れていく。
ミスティが俺の足元で、にゃあと鳴いた。
好感度【-40】。
出会った当初-50だった数字は、一度+15まで上がり、また-40に落ちた。
数字だけ見れば——後退だ。
でも。
最初の-50と、今の-40は——重さが全然違う。
最初の-50は「無関心からの拒絶」だった。
今の-40は——「大切だから突き放す拒絶」だ。
同じマイナスでも——中身が、まるで違う。
それを知っているのは、たぶん——世界で俺だけだ。




