第19話 銀水祭の前夜
シルヴァーノ領の年に一度の祭り——「銀水祭」が近づいていた。
シルヴァーノ湖に灯篭を流し、豊穣と平和を祈る伝統行事。城下町には屋台が並び、領民たちが集う、この地域最大のイベントだ。
準備は一ヶ月前から始まっていたが、俺が関わることになったのは、リゼットがポツリとこぼした一言がきっかけだった。
「今年の銀水祭の灯篭の発注量について、ブレンナーに確認しておいてください」
「わかりました。去年は何基くらいだったんですか?」
「三百基です。例年通りで構いません」
「三百……領民の人口からすると、かなり少なくないですか?」
リゼットの手が止まった。
「銀水祭は縮小傾向にあります。先代が亡くなってからは……領民の士気も以前ほどではなく」
声に、かすかな影が落ちた。
好感度は特に動いていない。【-8】。仕事の話題だからだ。だが——あの声のトーンは、数字には現れない寂しさだった。
少し考えて、俺は提案した。
「灯篭の数を増やすのはどうですか。五百基。そして——リゼット様が灯篭を流す開会式に立たれるのは」
「私が?」
「はい。先代公爵は毎年、自ら灯篭を浮かべていたと聞きました。リゼット様がそれをされれば——領民への恩義と意思表示になりますし……」
「——公爵が祭りに直接参加するのは、政治的なリスクがあります。暗殺の可能性も——」
「フィーネの部隊が護衛すれば問題ないのでは」
リゼットは沈黙した。長い沈黙の後——
「……検討します」
好感度、【-8】→【-5】。
「検討します」はリゼット語で「やりたいけど、まだ決断できない」だ。最近、彼女の翻訳ができるようになってきた。
その日の夜。
フィーネが訓練場の帰りに俺をつかまえた。
「ねぇレン、聞いた!? リゼット様が銀水祭の開会式に出るかもしれないんだって!」
「うん。俺が提案した」
「マジで!? すっごいじゃん! あの人が領民の前に出るの、お父上のお葬式以来だよ!?」
フィーネは興奮して俺の肩をバシバシ叩いた。痛い。騎士見習いの力を考慮してほしい。
「護衛はあたしが全力でやるから! 任せて!」
「頼りにしてるよ」
「えへへ」
フィーネの好感度、【+65】→【+67】。嬉しそうだ。リゼットのためになることを俺がしたことが、純粋に嬉しいのだ。
——この子は、本当に強い。
好きな人が、自分ではなく別の相手に向かっていることを知っていて——それでも応援できる強さ。
俺にはとても真似できない。
銀水祭当日。
城下町は活気に溢れていた。色とりどりの提灯が通りを飾り、屋台の煙が空に立ち上っている。金麦パンの焼ける甘い匂い、湖の魚を焼く香ばしい匂い。
俺は祭りの運営を手伝いながら、リゼットの到着を待っていた。
日が暮れた頃。
湖畔の特設舞台に、リゼットが姿を現した。
白と紺の正装。いつもの氷の表情。だが——微かに、緊張しているのがわかった。指先がかすかに握りしめられている。
好感度チェック——
おや。見えない。リゼットとの距離が離れすぎているため、頭上の数字が判読できない。
まあ、いい。
リゼットが灯篭に火を灯し、湖面にそっと浮かべた。
橙色の光がゆらゆらと揺れながら、湖の闇に溶けていく。
周囲の領民たちが、次々と灯篭を流し始めた。五百基の灯篭が湖面を埋め尽くし——夜の湖が、星空のように輝いた。
歓声が上がった。
「きれい……」
「公爵様が直接……」
「先代様を思い出すわ……」
領民の声が、リゼットにも届いていた。
彼女は——わずかに、唇を噛んだ。泣くのを堪えているように。
だが、泣かなかった。公爵として、凛と立ち続けた。
俺は遠くから、その横顔を見つめていた。
灯篭の光に照らされたプラチナブロンドの髪。夜の湖を背景にした、静かな横顔。
——綺麗だ。
それだけが頭に浮かんだ。好感度の数字でもなく、HP上限の計算でもなく。
ただ——綺麗だと、思った。
祭りが終わった後。
城への帰り道で、リゼットが俺の横を歩いていた。フィーネと護衛兵が少し後ろを固めている。
沈黙。
数分歩いた後——リゼットが小さく言った。
「……灯篭、五百基は多すぎたかもしれません。準備の負担を考えれば」
「そうですか? でも、みんな喜んでましたよ」
「ええ。私も——とても美しいと思いました。だから、来年は——七百にしましょう」
俺は笑った。リゼットの顔は無表情のまま——だが、横目で見ると、唇の端がほんの少しだけ上がっていた。
近づいた今、頭上の好感度が見えた。
【+5】
-5から+5に。10ポイント回復して、茶会前の水準に戻った。
「……レン」
「はい」
「提案してくれて——」
そこで言葉を飲み込んだ。
いつもなら「忘れなさい」が来る場面だ。
だが今夜は——
「——ありがとう」
ありがとう。
二度目の。
今度は——ちゃんと聞こえた。
好感度は変わらなかった。でも——あの声は、+5なんかじゃ測れない。




