第16話 忘れなさい
茶会の翌日。
リゼットと顔を合わせるのが、怖かった。
怖い——なんて感情、この世界に転生してから初めてだ。好感度がマイナスになることは何度もあったが、「数字が下がるのが怖い」のではなく、「彼女に会うのが怖い」。
その違いに、自分でも戸惑った。
午前中は執務室を避けて、フィーネとの訓練に集中した。と言っても、心ここにあらずで三回連続投げ飛ばされた。
「レン、今日ダメダメじゃん。何かあった?」
「……いや、別に」
「嘘。わかるよ。目が泳いでる」
フィーネの好感度、【+65】。変わらぬ安定感。だが、鋭い。
「リゼット様と何かあった?」
「……なんでわかるの」
「だって、リゼット様も今朝から様子がおかしいもん。廊下で侍女にぶつかってたよ。あの人が人にぶつかるなんて、あたし初めて見た」
——リゼットが、人にぶつかった。
あの、一分の隙もない所作を持つ氷の公爵令嬢が。
動揺しているのは——俺だけじゃないのか。
その事実が、妙に嬉しくて、同時に申し訳なかった。
午後。
逃げ続けるわけにもいかない。俺は覚悟を決めて執務室に向かった。
扉をノックする。
「レンです。入ってもよろしいですか」
沈黙。長い沈黙の後——
「……入りなさい」
執務室に入ると、リゼットはいつも通りに書類に向かっていた。いつも通り。完璧に、いつも通りの氷の仮面。
だが——机の上のティーカップが空のまま放置されていた。普段のリゼットなら、使用済みのカップを机に残すことはない。
何も言わず、自分の席に座った。書類を広げて作業を始める。
沈黙で仕事をする。十分。二十分。三十分。
この沈黙は重いが——不快ではない。お互いがお互いの存在を意識しながら、でも直視しない。
一時間が経った頃。
リゼットが口を開いた。
「レン」
「はい」
「……昨日の件ですが」
心臓が跳ねた。
「ティーカップを壊してしまい、申し訳ありませんでした」
——え?
壊した? ショコラが引っ掛けたのは俺のカップで、リゼットのカップは無事だったはずだが——
「あの後、一人で片付けている際に落としてしまいまして」
——ああ。
茶会の後、一人で後始末をしたのか。震える手で。
「それは大丈夫です。カップは弁償しますので——」
「弁償は結構です。……それと」
リゼットのペンが止まった。
「昨日の——最後のことは」
最後。指が触れたこと。彼女が硬直したこと。あの微笑み。
「忘れなさい」
静かな声。だが——有無を言わさない強さがあった。
「今のは——失態です。私の。公爵として、あのような动揺を見せるべきではなかった」
「いえ、俺は別に——」
「忘れなさい、と言っています」
好感度チェック——
【-20】→【-22】
下がった。さらに2下がった。
ああ——締め出しにかかっている。壁を立て直している。昨日の茶会で見せてしまった「隙」を、全力で塗り固めようとしている。
「……わかりました」
俺は言った。
「忘れます」
嘘だ。忘れるわけがない。あの微笑みを。あの手の温もりを。
だが今、リゼットが必要としているのは「忘れてくれる安心感」だ。この人は——弱さを見せたことを恥じている。無防備だった自分を許せない。
俺が「忘れない」と言えば、彼女は恐怖する。自分の弱さが記憶に残ることを。
だから——
「忘れました」
「……そうですか」
リゼットがペンを持ち直した。その手は——もう、震えていない。
好感度——
【-22】→【-18】
少しだけ戻った。「忘れた」ことで安心したのだろう。
だが——まだマイナスだ。茶会前の+15からは、程遠い水準に落ちている。
分析する。
リゼットの好感度は、「個人的な感情」が動いた時に暴落する。触れ合い、微笑み、動揺——感情が仮面から漏れた瞬間、彼女は全力で逆方向に振りかぶる。
照れているのに、数字はマイナスに沈む。
嬉しいはずなのに、態度は氷のまま。
これが——好感度システムの「罠」だ。
数値は態度を反映する。態度と感情が一致している人(フィーネのような人)なら、数値は心を正しく映す。だがリゼットのように態度と感情が乖離していると——数値は嘘をつく。
俺は今、岐路に立っている。
数字を信じるのか。自分の目を信じるのか。
数字は-18を示している。嫌われている、とデータは言っている。
でも——0.5秒の微笑みを見た俺の目は、違うことを告げている。
「リゼット様」
「何ですか」
「明日も、執務を手伝います」
「…………好きにしなさい」
好感度、【-18】→【-17】。1だけ上がった。
多くを期待しない。焦らない。
「忘れる」と言った俺は嘘つきだ。でも——その嘘が彼女を守るなら、嘘をつき続ける。
いつか、「忘れなくていい」と彼女が言ってくれる日まで。
自室に戻る廊下で、ふと立ち止まった。
ポケットの中に——ハンカチがない。
昨日、リゼットに渡したハンカチ。返されていない。
彼女は「忘れなさい」と言ったが、ハンカチは返さなかった。
……それだけで——十分だと思った。




