第15話 氷が溶ける0.5秒
暁の庭園。
シルヴァーノ城の南側に広がる、白い花と石のベンチが点在する美しい庭園だ。シルヴァーノ湖を見下ろす高台にあり、午後の日差しが水面できらきらと反射している。
俺はベンチの前に小さなテーブルを設え、コック長から借りた茶器にレイクミントティーを用意した。リゼット好みの、少し濃いめ。
隣のベンチにはミスティが丸まっていて、ショコラが足元をうろうろしている。
猫という名の保険だ。気まずくなったら猫の話題に逃げられる。
——と思っていたら。
「お待たせしました」
リゼットが来た。
驚いた。いつもの白と紺の正装ではなく——シンプルな薄紫のワンピース。早朝の散歩の時に見たのと同じ、私服の姿だ。
髪を下ろしている。プラチナブロンドのロングヘアが風に揺れて、午後の光の中で銀糸のように輝く。
「——どうかしましたか」
「い、いえ。……お茶、どうぞ」
見とれていたことを悟られないよう、急いでカップを差し出す。
リゼットはベンチに腰を下ろした。ミスティが「にゃあ」と鳴いて、すり寄る。
——リゼットの左手が、ミスティの背中に触れた。
人前では絶対に猫を触らないはずの彼女が。
ちらりと俺を見た。
「……今のは、見なかったことに」
「何がですか?」
わざととぼける。リゼットの右耳が、ほんのかすかに赤い。
好感度チェック——
【+13】。変わらない。耳は赤いのに数字は動かない。
レイクミントティーを一口含む。リゼットも同じようにカップに口をつけた。
しばらく、静かな時間が流れた。
湖からの風が花の香りを運んでくる。ミスティがゴロゴロ言っている。ショコラが俺の靴紐にじゃれついている。
「……静かですね」
リゼットが言った。
「え?」
「ここは——静かです。城の中と違って」
それは当たり前のことを言っているだけに聞こえる。だが——リゼットが「感想」を口にすることは極めて稀だ。
「城の中は、うるさいですか?」
「物理的にではなく。……声が。要求が。交渉が。常に誰かが何かを求めてくる。領地の利権、政治の駆け引き、派閥の思惑——」
リゼットは言葉を切った。言いすぎた、という表情で。
「……失礼。独り言です」
「いえ——わかります。前……子供の頃、似たような経験がありましたから」
前世。毎日、上司の指示、同僚の要求、取引先のクレーム。頭の中が常に他人の声で埋め尽くされる感覚。
「常に何かを求められるのって、疲れますよね。自分が何を考えたいのか、わからなくなる」
リゼットの紫の瞳が、こちらを向いた。
探るような目。だが——いつもの「氷」ではなかった。もう少し深い場所を覗き込むような、静かな目。
「……あなたは、不思議な人ですね」
「え?」
「子爵家の次男が、そのようなことを言うとは思いませんでした」
「はは……まあ、変な子供だったと思います」
リゼットはカップに視線を戻した。
「私は——父が亡くなってから、一人でお茶を飲むことにも慣れました。誰かと茶を交わすのは……」
わずかに言い淀む。
「……久しぶりです」
好感度——
【+13】→【+15】
上がった。自然に。計算でも作戦でもなく——ただ、一緒にお茶を飲んで、少し話をしただけ。
「次は——」
リゼットが口を開きかけた時、ショコラがテーブルに飛び乗った。カップを引っ掛けて——
「あっ」
お茶がリゼットのワンピースにこぼれた。
「す、すみません!」
俺は慌ててハンカチを差し出した。リゼットが受け取ろうとして——指と指が、触れた。
一瞬。
0.5秒にも満たない接触。
だが——リゼットの体が、弾かれたように硬直した。
顔が真っ赤に——いや、耳だけが真っ赤になった。顔は無表情のままだ。だが首筋まで朱に染まっている。
「も、問題ありません。自分で拭きます」
声が震えている。この人の声が震えるのを聞くのは初めてだった。
「リゼット様、大丈夫——」
「——問題ないと言っています」
冷たい声。だが——震えている。
好感度チェック——
【+15】→【-20】
え。
-20?
+15から-20?
一瞬で35ポイント暴落した。
何。何が起きた。お茶がこぼれただけだぞ。指が触れただけで——
リゼットは立ち上がった。ハンカチを返さず——いや、握りしめたまま。
「今日はここまでです。——ありがとうございました」
早足で去っていく。その背中は、完璧な氷の仮面を被り直していた。
——だが。
去り際に、一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ——
リゼットが微笑んだのを、俺は見た。
0.5秒にも満たない、口角のわずかな上昇。氷が溶けるような、ほのかな温もりを含んだ表情。
だがその微笑みは、次の瞬間には消えていた。鉄の仮面のように。
俺は——ベンチに座ったまま、呆然としていた。
好感度は、【-20】。
数字だけを見れば——最悪の展開だ。+15から一気に-20。逆戻りどころか、彼女と出会ったばかりの頃の-30に近い水準まで丸ごと落ちた。
だが。
……あの微笑み。
数字は-20を示している。だけど——あの0.5秒の笑顔は、嘘じゃない。
嬉しかったんだ。恥ずかしかったんだ。照れたんだ。
——そして、照れた自分を許せなくて、全力で壁を立て直した。
「態度」がマイナスに振り切れたから、好感度がマイナスに急降下した。でも「感情」は——きっと、逆方向に動いていた。
これが「リゼットの罠」なんだ。
態度と感情が逆。好感度の数字が、心の真実を映していない。
「……厄介だな」
ショコラが足元で「にゃあ」と鳴いた。ミスティはとっくにどこかに行った。
手の中に残る感触。リゼットの指が触れた、あの一瞬。
彼女の手は——想像していたよりも、ずっと——
「……温かかった」
好感度は下がった。
でも——あの微笑みは、下がっていない。
俺の心臓は、相変わらずうるさい。




