新たな目覚め
深い闇――そこは無明。見渡す限りの黒には一点の曇りも無く、何も見る事はできない。無機質で底知れない闇に沈んでいく感覚が身も心も呑み込んでいく。
しかしそれは不思議と恐ろしいものではなかった。何一つ見えない闇は本来恐怖の対象でしかないはずなのにその闇は深く、そして優しかった。
※※※
「――ん……っ」
目の間に広がっていた闇が上下に切り裂かれ、その向こうに広がる世界が目に映る。
それが、自身が閉じていた目を開いたからであるということを認識するのに、恋詠は数秒ほどの時間を要してしまっていた。
「あれ……?」
恋詠が目を開いた時、目に飛び込んできたのは見慣れない天井だった。
(ここどこ……?)
寝ぼけ眼でをしばたたかせ、ぼんやりする頭で思考をまとめようとしていた時、優しい声が耳に届く。
「おはようございます。お身体の具合はいかがですか?」
「え?」
その声に導かれるように半ば寝ぼけた視線を向けた恋詠は、一瞬で意識を覚醒させる。
(……誰? すごい綺麗な人……!)
それもそのはず。そこにいたのは、まるで絵画から抜け出してきたような美しさを持つ美女だったのだ。
作り物と見紛うばかりに整った顔立ちに、肩までの長さで丁寧に切り揃えられた艶やかな亜麻色の髪。
それと同じ瞳を持つ目は優しい光を宿しており、大人びた雰囲気を漂わせている。
その身に纏っているのは、白と黒を基調とした、いわゆるメイド服と呼ばれるものだった。
「初めまして。私は『リーゼロッテ・ニルヘイド』と申します。デクス様にお仕えする悪魔で、メイド長を仰せつかっております。『リーゼ』とお呼びください」
恋詠の目が自分を捉えたのを見て取ったメイド姿の美女――「リーゼロッテ」は、足元までを隠すロングスカートの裾を摘まんで上品に一礼する。
「あ、くま……? ――ッ!」
リーゼと名乗った女性の言葉が呼び水となり、恋詠の脳裏に一瞬で最期の瞬間の記憶が甦ってくる。
「麻衣は!? 麻衣はどうなったんですか?」
「麻衣?」
跳ねるように身を起こした恋詠に詰め寄られ、リーゼは怪訝な表情を浮かべる。
「友達です! 黒い人間の形をした奴につかまって……」
「自分の事よりも友人の事ですか」
狼狽を隠せず、青褪めた顔で言う恋詠に、リーゼは微笑を浮かべると優しい色を帯びた視線を向けてくる。
「え?」
「落ち着いてください。まずは、自分のことを。――お身体の具合はどうですか?」
そんな恋詠を宥めるように声をかけたリーゼは、まずは自分の体調を気にするように促す。
「私……身体が? なんで? どういうこと!? っていうか、この服……」
そんなリーゼの言葉に不承不承ながらも応じた恋詠は、最後の記憶の中で失われていた半身が確かに存在していることに今更ながらに気づいて、困惑に彩られた様子で言う。
失われたと思っていた身体には何の傷もないが、代わりに最後に着ていたはずの制服ではなく、リーゼロッテのそれと似たメイド服が着せられていた。
デザインは似ているが、いかにもといったメイド服を纏っているリーゼロッテに対し、恋詠のそれはミニスカートに太ももの中程までの丈の黒いサイハイソックスと、コスプレに近いものだった。
「あなたが元々着ていた服は破れてしまっていたので、私の方で処分させていただきました。さすがに裸で放置するわけにも参りませんので、予備の服を着させていただいたのです」
「あ、ありがとうございます?」
記憶にない服を着せられていることに困惑していた恋詠は、楚々としたリーゼにその理由を教えられ、反射的に頭を下げる。
「色々と聞きたいことがあるでしょうが、それについてはデクス様が説明してくださいます。ですからこれから共にデクス様に面会していただきます」
「は、はい」
事態を呑み込み切れない恋詠とは対照的に、リーゼは淡泊な様子で話を進めていき、その言葉に考える余裕もなく流されてしまう。
「そういえば、あなたのお名前を聞いておりませんでしたね」
そのまま身を翻そうとしたリーゼは、ふと何かを思い出したように足を止めて肩越しに恋詠に視線を向ける。
「あ。天原恋詠です」
「恋詠さんですね。では、参りましょう」
改めて恋詠の名を聞いたリーゼは、部屋の扉を開く。
「は、はい」
その後に続き、たまたまそこに置かれていた姿見に映る自分の姿を見た恋詠は、一瞬埒もない感想が意識をよぎった。
「ちょ、ちょっと可愛いかも……」
そんなことを考えてしまったのは、理解を超える現実から目を背けるためだったのか、あるいはこんな非常識な状況を無意識に受け入れていたからなのか、恋詠には分からなかった。
(わぁ……)
リーゼに連れられ、部屋の外へと出た恋詠は、眼前に映る光景に思わず心の中で感嘆の声を零していた。
部屋の外には赤いじゅうたんが敷き詰められたいわゆるお屋敷風の廊下が広がっており、この建物がかなり大きな洋風建築の屋敷であることが一目で分かる。
しかし廊下にはこういう屋敷にはあるはずの絵画や高価そうな品物は見当たらない。
そもそも屋敷に絵や骨董品があるというのは恋詠の完全な思い込みで単なる偏見に過ぎないのだが、今までそういうものにテレビや漫画以外で実際に見る事は無かったのだから、それが平均的な人間の発想なのかもしれない。
「こちらです」
そんな事を考えている恋詠を引き連れていたリーゼは、そう言って廊下の突き当たりにある部屋の前で立ち止まると部屋を軽くノックする。
「リーゼです」
「入れ」
それに応じる室内からの返事を受けたリーゼは、装飾の施された銀のドアノブのついた扉を開き、恋詠を招き入れる。
「さあ、どうぞ中へ」
リーゼに誘われ、恋詠は胸に手を当てて呼吸を整えると、口を真一文字に結んで恋詠は扉の中へ足を踏み入れる。
「……っ」
リーゼに誘われるままに部屋の中に入ると、そこには重厚な机に座った銀髪の悪魔――「デクシア」が真っ先に目に飛び込んでくる。
その姿に目を奪われ、言葉を失っている恋詠の姿を見止めたデクシアは、机に座したまま口を開く。
「具合はどうだ?」
「え? あ……えっと、特に異常はないみたい、です」
デクシアの身を案じる言葉に反射的に自分の身体へ視線を落とした恋詠は、戸惑いながら答える。
「そうか――自己紹介がまだだったな。俺は『デクシア・フェル・ヴァルザード』。『デクス』でいい。もう知っているだろうが悪魔だ」
そんな恋詠の言葉に安堵したような表情を浮かべたデクシアは、改めて自己紹介をする。
(意外と礼儀正しいんだ)
「天原恋詠です」
ベルザードとの戦いで名を呼ばれていたが、正式な自己紹介はまだしていなかったことを思い返した恋詠は、それに応える。
「あの、麻衣は? それに、ここはどこですか? なんで私はここに?」
「色々聞きたいことはあるだろうが、まずは謝罪をさせてくれ」
恋詠の口から自然と零れた疑問を受け止めたデクシア――デクスは、謝罪の言葉を述べると共に、一拍ほどの間を置いてから口を開く
「すまない。――お前はもう死んでいる」