前と後ろ
AM:5:30
目覚まし時計が鳴る一瞬前に、山﨑愛花は目を覚ました。何か夢を見ていた気がするが、内容は思い出せない。
布団を出て、素足を床に着けると、冷たさを感じた。残暑も終わり、特に朝方は秋らしい涼しさを感じるようになった。そろそろ靴下がいるかも、と思いつつ、ドアノブに手を掛けた。
ここ数ヶ月間、愛花の朝はいつでも、嬉しいものだった。何故なら起床と同時に、大好きな顔が見られるから。
「純、おはよ」
「ああ、おはよう」
同じ部屋に住む幼馴染で、彼女の護衛である滝本純。彼とは起きる時間が殆ど同じだ。だから、朝起きて部屋を出ると、必ず彼がそこにいる。
この生活が始まってそれなりに経つが、朝一番の純を見ると、愛花は頬が緩まずにはいられない。何しろ原因が原因とはいえ、このシチュエーションそのものは、愛花にとって夢の一つではあったからだ。
愛花は顔を洗っね髪を解き、バンドで一つに纏めると、キッチンに立った。朝食と、純の弁当を作るのが、彼女の朝の仕事だ。
「よし……!」
エプロンを身につけて一つ気合を入れてから、愛花は冷蔵庫を開けた。
弁当の多くは、晩御飯の残りそのままか、余った食材を活用する。加えて栄養と食べ応えまで両方を考えた上で、朝から晩までのメニューを一週間先まで組み立てる。楽なことではないが、パズル的な楽しさがあるため、愛花は苦にはしていない。そもそも多少辛くても、『純のため』となれば、そんなものはあってないようなものだ。
昨晩の麻婆茄子をメインに、朝食にもなっている卵焼きなどを弁当箱に詰めていく。幸いなことに、純は食べ物自体の好き嫌いは、あまり無い。
朝食には塩鮭を焼き、これも昨晩の残りである豆腐の味噌汁と一緒に出す。朝はシンプルかつしっかり栄養を摂れるように、という考えだった。
「愛花の作るものならなんでも美味い」
純は毎回のようにそう言う。一見するとお世辞に見えるものの、彼の本心だというのは、愛花はよく知っていた。
純とゆっくり朝食を楽しむなか、愛花は心の底で、何かが蠢いているのを、見ないふりをした。
*
愛花は現在、魔導協会側に保護されている身の上だ。本来なら協会本部内で缶詰状態になるはずのところを、支部長の判断で『純を護衛につけつつ、協会から半径一キロの範囲で移動出来る』という形になった。
これは彼女の人権に対する配慮とされているが、実際にはもう少し理由がある。
それは、アーシェラが『人目につく事を避ける』ためだった。彼らは自身の存在を『自然現象』として流布させ、世界の目から隠れている。故に、多人数を巻き込むような行動は取りづらい。協会に閉じ込めるより、一般人の集合住宅に置いた方が、却って向こうの攻勢を制限出来る。少なくとも協会の外に居るうちは、彼らが襲撃するリスクを減らせるのだ。
しかし、これも当然確実な手ではない。何しろその彼らは、住宅街への進出という強引な行動を取るほど、愛花を欲している。辺り一帯を焦土にするような強硬策を用いる事も、考えられなくはない。しかし情報戦において、向こうの拠点の一つさえ知らない魔導協会は、常に後手なのだ。故に警戒は絶やしてはならない。
だが協会側は、こうした事情を愛花には意識させないようにしていた。彼女が如何なる能力を持とうと、彼女に一切の咎は無いのだから。
故にこうして彼女がのびのびと過ごせているのは、協会にとっても喜ばしい事だった。
そんななか、愛花は昼休みーー瀬良の前で机に突っ伏して絶叫していた。
「霧嶋くんが羨ましすぎる!!!」
心の底からの本音だった。
愛花にとって、アキラは言うなれば『仲間』である。年上の異性に長年恋をし続け、理由は違えど勝負に出るのが難しかった。そんな彼が、念願叶って維月と恋人になれた訳だ。無論めでたいし、心から祝福している。そこに至るまでの彼の歩んだ過程への尊敬の念もある。
だがそれはそれとして、『先を越された』という意識は拭えなかった。その後の彼の浮かれっぷりを見ていると、尚更だった。
「けど、滝本さんなら愛花さんが本心から言ってると分かれば、受け入れてくれそうじゃないですか?」
「いやまあ、確かにそうなんですけど……。私もそれは、ちょっと考えたことがあるんです……けど!」
愛花は机から勢いよく起き上がると、鼻がくっつきそうな程に、瀬良まで顔を近づけた。
「『仕方ない』じゃダメなんです! 『愛花しかない』ってぐらい夢中にさせないと」
愛花も考えた事はあった。自分が真剣に告白すれば、『愛花がそうしたいならいいよ』と、純は付き合ってくれるのではないか、と。
実際にそうなる可能性はある。しかし、それは結局『お情け』でしかない。愛花の目的は、ただ一時恋人だった、という思い出ではない。彼女が目指すのはもっと先の未来まで、純と手を繋いで生きていくこと。
故に、妥協は許されない。
という事を友達に話すと、『重い』と言われた。
「それは道理ですけども……それならまず、滝本さんからの意識で変える必要がある事があるかと」
「変える必要がある、ですか?」
「ええ。率直に申し上げて、滝本さんにとっての愛花さんは、恐らく庇護の対象です。言い方は悪いですが……『横に並んで一緒に歩く』というのがイメージしづらいのではないでしょうか」
「うっ……」
「霧嶋さんが成就されたのは、先の戦闘において『頼り甲斐』を示せたから、というのが大きいと思います。恐らく彼も、愛花さんと同じ立場にあったでしょうし」
「つまり私も……純に頼り甲斐を示せれば良い、ということでしょうか……?」
愛花は腕を組んで暫く唸った。自分が純に頼り甲斐を示す方法を、知恵を絞って思案した。が、いつしか腕の位置は胸の前から頭に移動していた。
「いや瀬良さん……それめちゃくちゃ難しくないですか!?」
少し考えただけで、アキラと愛花では『これまで』が大きく違う事が分かってしまった。
何しろ、アキラは曲がりなりにも男。『男子三日会わざれば刮目して見よ』という言葉もある通り、男性としての成長は、長い間会えなかった維月に大きな衝撃を与えた。長期間離れていたという点が、結果的にプラスに作用したと、愛花は考えている。
ところが愛花の場合、純が学生の頃はほとんど毎日のように顔を合わせ、就職してからも何かと都合をつけて会おうとしていた。ただ純に会いたいという心に従っていたのだが、ずっとこうしている以上、『愛花は変わらない』という印象を与えている可能性は、否定できない。
悩む愛花だが、瀬良の回答は明瞭だった。
「いえ、私は案外そう難しくないと思ってますわ」
「それ……ですか?」
「今協会は、大変難しい状況にあります。表に出さずとも、内に不安を抱えていない筈がありません。そんな中でも、変わらず笑顔で迎えてくれる人がいれば……どうでしょうか?」
愛花の勝算を確信しているように、瀬良は微笑んだ。とはいえ、愛花の周りで、彼女の勝利を確信していないのは、愛花本人しかいないのだが。
「なるほど……それは確かに」
「ただ帰りを待つ、といえば古い考えかもしれませんが……戦う上で心の支えが必要なのは、老若男女変わらないでしょう? 彼が帰ってくる事を『信じて』待って、帰ってくれば明るく、優しく出迎える。それだけで愛花さんなら充分だと思いますわ」
「分かりました! 私、もっと純の支えになれるよう頑張ります!」
愛花は両手をグッと握り、決意を新たにする。
彼女が夢見る『先の未来』のために、もっと純にできることを考えていこう。
*
医務室から出た純の顔は、誰が見ても分かるほどに影が差していた。
前回の戦闘で、奇襲してきた敵に簡単に制圧された事は、まだ記憶に新しい。アキラの孤軍奮闘で撃退出来たが、そのアキラは今もベッドの上。
それでも、維月と彼の新たな関係に繋がったことで、悪いことばかりでは無かったと思っていた。
そんな純を撃ったのは、他ならぬアキラの言葉だった。
『オレ、協会やめるわ』
前向きに笑顔さえ浮かべて、彼は言った。
『維月姉、自分で新しく起業するってよ。何やるかはまだ聞いてないけど……オレは、維月姉がやる事を側で支えてぇんだよ。……オレが支える側なら頼りないからだって? うるせぇ、その通りだよ』
以前から純自身、思っていた事だ。アキラは、魔術師には向いていない。魔導因子の問題ではなく、気質の問題で。
だがそれでも、包帯の下から覗く無数の切り傷と、低下した握力に、心が揺れない筈はない。滝本純はそういう男だ。
「……」
アルバート・レイノルズ。純では太刀打ち出来ない強敵だった。
どうやって退けたのか。純は、それを一切覚えていなかった。




