硝子の誇り
目を覚ましたとき、視界に入ったのは白い天井とーーいつになく切迫した表情の親友だった。
毛布を被っていない左腕は、全体を包帯に覆われている。毛布の下も、恐らく同じだろう。
何故こうなったのか、記憶はハッキリしている。あのレイノルズという男と戦い、全身を切り刻まれた。意識を無くす時は死んだと思ったが、こうして生きているのは不幸中の幸いか。
「純……」
「っ! 気付いたか……とりあえずは、良かった……」
純は本当に安心したように息を吐いた。この瞬間の表情は、まるで幼少期の彼に戻ったようだった。そして、同時に思い出した。何故自分が、全身を切り刻まれてまで戦っていたのかを。
「維月姉は!? ……ぐがっ!?」
勢いよく体を起こすと、身体中が電気を浴びたような痛みが走った。衣服から覗く包帯には、血が幾つもの場所から浮き出ていた。
「維月さんなら無事だ。だから動くな」
「本当か?」
「ああ。お前が奴にダメージを与えたから、奴は撤退した。維月さんどころか、支部に近づく事も無かった」
「……そうか」
アキラはベッドに倒れ込み、大きく息を吐いた。変わらず体は痛むが、表情に一切の歪みは無い。
「というか、お前も何だかんだ無事そうだな」
「ああ。気絶したのは衝撃と音が原因で、身体の損傷自体はそれ程じゃなかった。来週には完治してるだろう……とさ」
純は垂れ下がった右腕に触れつつ、眉間に深い皺を作った。
「三船さんは俺より重症だったが、治癒用のカプセルに入ったから、多分復帰は俺と同じぐらい。東条さんは大体俺と同じ具合だ」
「ボロボロだな……」
「ああ。……向こうの狙いが何なのかは分からないけど……これだけは言える」
純が右腕に触れる握力を強めた。血が滲みそうな程に歯を食い縛り、絞り出すように言う。
「加減された」
「……あぁ」
アルバート・レイノルズには、アキラたちを殺す意志は無かった。ただ少し怪我をして、戦闘不能に追い込めれば良かった。もし向こうがその気なら、彼らは全員殺されている。アキラの怪我が純たちよりずっと重症なのは、彼が想定外の根性を見せた事で加減を誤ったためだった。
悠とホンファという重大な戦力を欠いていたとはいえ、一人の相手にこれだけの損害。アーシェラという脅威を、魔導協会東京支部の面々は、改めて思い知らされた。
「……一つ謝る事がある」
「何だよ。まさかオレに怪我させた事とかか?」
「それもあるけど……一番怪我が重いお前に治癒カプセルを使わせられなかった。あれは試作品で二つしかない。一つは悠が使っていて、もう一つはーー」
「んだよ、そんな事かよ。どーでもいいわ」
見るからに気落ちしている純に、アキラは両手を枕にしながら平気な顔で言う。
「戦略的に考えて妥当だろうが。いつアーシェラが来るか分からねェ中で、オレと東条さんなら東条さん優先するに決まってるわ。そもそもそういうのはお前じゃなくて、支部長とかその辺の判断だろ? 文句言うなら普通にそっちだろ」
「……」
「何だその顔」
「そういう考え方が出来たのかと……」
「オレを何だと思ってやがる」
アキラは、少し驚いた顔の親友に心の中で舌打ちをした。そして、不意に心全体が冷たくなっていく。
果たして自分を見て、維月はどう思うだろうか。
ボロ雑巾一歩手前になって、初見殺しが当たっての大金星。それも、四人がかりで、だ。しかも向こうは『協会の魔術師を殺さない』という縛り付き。維月のような美しさ、優秀さなどない、運に救われた勝ちだ。
『それでも勝ちは勝ちだ』と、ゲームならアキラも開き直れた。だが、身体の痛みが、これがゲームで無い事を証言している。
それでも守れただけ、あの時よりはマシか。
そう思って溜飲を下げようとした時ーー
「アキラ」
頭の中で浮かべた声が、鼓膜を震わせた。純の後ろの扉を開けたまま、目を丸くした維月がいた。最後に見た時より、髪の艶が弱く、痩せたように見える。それでも彼女の美しさは、アキラにとって至高のものだ。
だから彼は目を合わせられず、顔を伏せた。文字通り、合わせる顔が無いような気がした。
そうして長いーー実際には数秒程度だろうーー沈黙の末に、大きな手に髪を掴まれ、無理矢理に頭を上げられた。
「顔上げろ馬鹿」
純はそれだけ言って手を離すと、開けっぱなしの扉から病室を出て、丁寧に閉めて行った。
そうなれば、病室にはアキラと維月の二人だけ。維月は頼りない足取りでアキラに近づき、傍に腰を下ろした。
「魔導協会の事は聞いていた。誰も知らない場所で命懸けで戦っている事も知っていた。だが、いざ自分が標的になって守られてみると……本当に恐ろしい。自分の身以上に……私なんかのために、アキラや純、彼らが命を賭けなくてはならない事が……」
「維月姉ぇ……」
「私は、常に理想でなくてはならなかった。大人として、上に立つ者として、誰よりも余裕と自信を見せて生きる必要があった。アキラ。君から注がれる尊敬の眼差しが、私を『そうあり続けたい』と思わせてくれた。だがそれも……もう終わりだな」
それはアキラが初めて聞いた、維月の弱音だった。彼女は今、生まれついて決まっていた『海城建設を継ぐ』という道を失い、足元さえ覚束ない中にある。彼女にとって会社を継ぐ事は本意ではなくとも、既に覚悟していた道だった。崩れてしまえば心を乱さずにいられない程に。
その維月を前に、アキラは昔、愛花の言ったことを思い出していた。あれは純とアキラが小学校を卒業する頃だ。
『どうせ近所だしいつでも会えるじゃん。中学に上がればまた一緒だからあと一年の我慢だし。だからそんな泣くこと……』
『上の教室に行っても純がいないなんて耐えられないよぉ……』
『いやまぁ、山﨑さんが純に懐くのは分かるけど……。でもアイツ、普段は何も格好よくないだろ?
山﨑さんが純に助けられたのはそうだけど、よく幻滅しなかったな』
アキラとしては軽口のつもりだった。愛花も笑って返すと思っていたのだがーー彼女は一切笑う事なく、真剣そのものな眼で返した。
『霧嶋くんは維月さんがダメな人なら好きじゃなくなるの?』
あの一言で理解した。彼女は決して、純への想いを手放さないと。自分よりずっと背の小さい女の子の方が、アキラよりずっと、強い覚悟で恋をしていた。
そんな昔話を思い出したアキラはーー
「維月姉」
維月の手を取っていた。普段なら恐れ多くて、触れる事など出来ないその手に、何の躊躇いもなく自分の手を重ねていた。
「維月姉は……オレにとって、理想を映した鏡そのものだった。維月姉の近くにいても恥ずかしくない男になりたいってずっと思ってたよ。だから維月姉の為に戦ったのは、オレ自身の意志だ。無理矢理やらされてなんかいない」
海城維月こそ、霧嶋アキラの理想の女性。それは永遠に変わらない。彼女が理想で無ければ、などという問いは、アキラにとっては無意味だった。
海城維月が、彼女らしく生きる姿。それがアキラの理想なのだ。
それが叶わなくなればどうするか。その答えはーー
「維月姉が強く、真っ直ぐ生きられるなら……オレは何だってする。誰とだって戦う。オレは誰の理想にもなれない硝子だけどよ……。維月姉の為に戦うことなら出来るから」
今ようやくアキラは、心から純の心境を理解した。
大切な人が笑えなくなっているのは我慢出来ない。彼女の美しさを知るからこそ、黙っていられない。尤も、純に関してはそもそも愛花の笑顔を知らない段階から始まっていたのだが。だが裏を返せば、維月をよく知っている彼の想いは、誰にも負けないものとなっていた。
「だからオレーーっ!?」
不意に温かな感触が、少しの息苦しさを伴ってアキラを包んだ。
「私には既に、立つ為の柱など無い。今や何の後ろ盾も無い、無職の女に過ぎない。あれ程縛られていたと思っていた筈の親と、その会社が、無くなってみれば何処へ行けばいいか分からなくなった。それでもアキラは……」
「だからさ、言ったろ維月姉」
維月の体に手を回し、アキラは囁くように言った。
「オレは維月姉が好きだからよ。維月姉の隣にいる為なら、何でも出来る」
維月は暫しの沈黙ののち、一層腕にこめる力を強めた。
「私は中学からずっと女子校で、男子との関わりは皆無だった。男性と人生を共にするというビジョンも一切浮かばない。そんな相手が私にいるとしたら……私にとって一番の誇りとなれる人だと思う。もし、そんな人がいるなら……」
維月が顔を上げ、アキラの眼に、ほんのりと赤く染まった彼女の顔が映った。
「アキラしか、考えられない」
アキラが言葉の意味を飲み込むより先に、再び維月がアキラを抱擁する。
「君がいてくれるから、私はこの先も己に誇りを抱いて生きられる。だからこれから……私と共にいてくれ」
「……維、月……姉……!」
自らの想いが成就した事を理解し、アキラは維月の胸に顔を埋めた。




