15:朝生くんは単なる心配性(であればいい)
「まあ、いっか」
唖然と腰を抜かしていると、例の彼女の方向から不機嫌な声が聞こえてきた。可愛らしい大きな瞳でこちらを冷ややかに見下ろし、彼女は手にしていたモノ――大きめのカッターナイフの刃を、キリキリと収める。平然と行われるその動作にも心の中でビクつきながら、そこに赤い液体が付着しているのを見つけてしまった。そして、私はあまりに突然のことに忘れていた、自分の左腕を切られたという事実を思い出した。そうして自覚した瞬間に、ジリジリと焼けつくような痛みを感じる。けれど、彼女から目を離すわけにはいかなかった。
目を離すだなんて恐ろしい事、とてもできなかった。
「忠告はしましたからね、式降伊依さん」
そう嘲笑するように口角を挙げた彼女は、手にしていたカッターを学生鞄の中へ仕舞い、素早く階段のある方向へと駆けだした。彼女が一体誰でどこへ向かおうとしているのか、気にならないわけではない。しかし、今はとてもじゃないが、追うという選択肢は選べなかった。
鉈の件に関しては、まだ逃げ道があったのだ。園生先生の言うとおり、用務員さんたちが片づけ忘れたと考えれば、それ以上思い悩む必要はなかった。しかし、これは一体どういうことだろう。顔を合わせているにもかかわらず、彼女はご丁寧に手紙を手渡してきた。隙をつくためという理由も考えられないではない。が、彼女が現れた時点で、すでに私は隙の塊だった。のんびりと、どうやって断りの返事をしようかと考えていたほどだ。いくら運動神経が良いと言っても、先ほどのような不意打ちに一般人が対応できるわけがないのだから、そこに用心する理由がわからない。
そうなれば、私の思い当たる考えはひとつだけ。
攻略対象のうちの誰かが、彼女を操ったのでは?
「……大丈夫」
ふと聞こえた声に、思わず飛び上がりそうになった。しかし、この場にいるもう一人の人物を思い出し、寸でのところで耐えて顔を上げる。するとそこには、こちらに手を差し伸べている椚野朝生の姿があった。相変わらず疑問なんだか断定なんだかわからない口調だが、こちらに大丈夫かと尋ねてくれたのだろう。素直にその手を取りたい反面、彼が彼女に傀儡を行使したのではないかという疑いが脳裏をよぎる。
「……ああ、ありがとう」
しかし、それは表面上に出せない疑いだ。私は迷いながらも彼の手を左手でとり、すくむ足を叱咤して立ち上がった。
考え事は山ほどある。けれど、その前にまずは落ち着こう。疑心暗鬼は自滅のもと。ヤンデレ相手に病んでいては、本末転倒もいいところだ。気をしっかりもたないといけない。そう不安の種を呑み込んで、私は朝生の手を離し、痛む左腕へと目を向けた。
見事にブレザーとシャツが裂かれ、白い布地が赤で染まっている。出血量こそ大したものではないが、怪我をしているのは一目瞭然。ブレザーの替えは何着かあるものの、これをどうやって人目にさらさず、手当したものだろう。
まあ、触れるかどうかわからない人の目より、確実に見られてしまった人の目をどうにかしないといけないのだけれど。
そう頭を抱えそうになりながら朝生の方へ目を向けると、こちらはじいっと私の顔を凝視していた。無表情なのが、とても怖い。
「ええと……助けてくれて、ありがとう」
笑みもそこそこにお礼を言うと、彼は横に首を振って「僕はなにもしてない」と答えた。
「いや、あの場で声をかけてくれただけで、僕は病院送りにならず済んだんだ。そのお礼は、言わないとね」
そうため息交じりに呟いて、左腕を押さえた。さすがに今は、平然と振る舞う場面ではない。少しくらい、こうしてもいいだろう。
それに、これが朝生の自作自演でない限り、私を助けてくれたのは間違いなく彼だ。お礼を言うのは当然、『僕』でなければ腰を折って礼をしている。カフェテリアで一食といわず二食、三食と奢りたいぐらいだ。こんな時期に学園を離れるだなんて、とてもできないのだから。そのまま永久におさらばできるのなら、話も変わってくるけれど……私は絶対に、ここへ戻って来なければならない。
――賢く生きろよ、伊依。
不意に何度思い出してもかち割りたいメガネ面の言葉が頭をよぎり、思わず舌打ちを漏らすところだった。が、朝生がいる手前、拳を握るだけで我慢する。
前世であのゲームについてはよく譲羽という攻略対象のメガネを叩き割りたいと仲間内で話していた。しかし、譲羽よりも明らかに、式降現当主の方が腹が立つ。あいつさえいなければ、いや、あいつと先代の当主さえいなければっ……――。
「保健室、行こう」
悶々と考え事の旅路に出ていると、いきなり両肩を掴まれた。そのことで我に返り、声の聞こえた方向へ目を向ける。すると、朝生が私の右隣からがっちりと両肩を掴んでいた。怪我の部分へ触れないようにという配慮ならまだわかるが、なぜここまで厳重なのか……。
「これ以上迷惑をかけるわけにはいかないよ。保健室には、僕ひとりで行けるから」
正直なところ保健室だなんて状況説明に困る場所には決して行きたくないが、怪我をした生徒が保健室に行かないのは不自然だ。そして、その不自然さを例の女の子を操った人間に気付かれるのは、もっとご免だった。保健室の利用者なんて、保健室の先生に聞けばすぐに把握できてしまうのだから。
本当は園生先生に手当してもらうのが、精神的に一番優しいんだけど。
そんな気持ちが表情に出ていたなんてことはないだろうけれど、朝生は私の言葉の真偽を測るように無言でこちらの目を見つめる。……嘘じゃないよ、保健室行くって。ホントに。そう心の中で訴えながら、笑顔で対応していると、朝生はふいっと視線を外して真正面を向いた。諦めてくれたのだろうか。そんな一時の期待を裏切るように、彼は私の肩を掴んだまま、足を踏み出し始める。
「いや、僕も行く」
危うく転倒しかけた姿勢を整えて朝生の歩調に合わせながら、淡白なその声になんでだッとつっこみをいれたくなった。これ以上伍華のメンツと時間を共有するのは、精神衛生上よろしくない。そろそろ解放してほしい。というか考え事をする時間をください。そして園生先生の元へ駆けさせてください。お願いッ!
……と言いたいところだが、そういうわけにもいかない。私は内心項垂れながら「わかったよ」と仕方なさ気に頷いて見せた。