第9話:【8th Lap】一区・伊蔵、東海道を切り裂く
日本橋の元標を背に、伊蔵が地を蹴った。
その瞬間、見守っていた密偵・榊の目が、驚愕に大きく見開かれたのを俺は見逃さなかった。
「な……なんだ、あの走り方は……!?」
無理もない。江戸の飛脚の常識は、右手と右足,左手と左足を同時に出す「ナンバ走り」だ。体を捻らず、荷物を揺らさずに長距離を進むための歩法。
だが、今の伊蔵の走り方は、それとは根本から異なっていた。
前傾姿勢を保ち、骨盤を鋭く連動させながら、両腕を小気味よく前後に振る。
そして何より、足の裏全体で地面を叩くのではない。源造親方が作った厚底草鞋のつま先寄り――前足部だけで、静かに、かつ爆発的な反発力を持って地を捉えていた。鯨の髭のバネがしなるたび、伊蔵の身体はまるで弾丸のように前へと弾き飛ばされていく。
東海道の品川宿までは、ほぼ平坦な道だ。
千鶴特製の吸い飴(補給食)と梅糖水を走りながら口に流し込み、伊蔵は馬並みの速さで街道の旅人をごぼう抜きにしていく。後方を馬で追う榊の顔は、すでに余裕を失っていた。
だが、品川宿を目前に控えた高輪の大木戸を抜けた辺りで、突如、最悪の警声が街道に響き渡った。
「下にーーー! 下にーーーっっ!!」
伊蔵の視界の先、品川宿へ入る直前の狭い曲がり角から、厳めしい槍を掲げた行列の先頭が姿を現したのだ。
運悪く、大名行列が東海道を横切ろうとしていた。
「おい、飛脚! 止まれ! 大名行列だ!」
「下にいろ! 控えろっっ!」
周囲の旅人や茶屋の客たちが血相を変え、一斉に街道の端に平伏し始める。
大名行列の進路を乱したり、その前を横切ったりすることは、その場で斬り捨てられても文句の言えない「無礼打ち」の重罪。いくら公儀の速度試験であっても、榊から中身を伏せられている以上、八坂屋に行列を突っ切る特権など与えられていない。
「嘘だろ……! ここで足止めかよ……っ!」
後方の馬上で、榊がハッと息を呑み、手綱を引いた。
行列が通り過ぎるのを待てば、短く見積もっても二、三十分は完全に足止めを食らう。三十時間という限界の制限時間が、無慈悲に削り取られていく。
「曲者かッ!? 止まれ、止まらねば斬る!」
色めき立った大名の供侍たちが刀の柄に手をかけ、伊蔵を阻むように街道へ立ち塞がった。正面から突っ込めば一瞬で斬り捨てられ、八坂屋そのものがお取り潰しになる絶体絶命のピンチ――。
(止まるか……? いや、ここで止まったら、次の宿場で待ってる仲間に……宗吉に、お嬢に合わせる顔がねえッ!!)
伊蔵の目は死んでいなかった。
彼は街道の侍たちを正面から見据えたまま、突如、右側の泥だらけの狭い路地へと急ハンドルを切った。そこは、高輪の「岡場所(非公認の遊廓)」へと続く、およそ堅気の通る道ではなかった。
「おい、どこへ行く八坂屋! そっちは行き止まりの泥溝だぞ!」
馬上で榊が叫ぶ。だが、伊蔵はニヤリと笑った。
(へへ……お役人様、この高輪の裏路地を舐めねえでもらいたいね。お上の目を盗んで朝帰りを決めるための『秘密の抜け道』があるんだよ!)
伊蔵には、この岡場所に懇意にしている小気味の良い女郎がいた。彼女から「捕り方や見回りが来たら、ここから逃げな」と、枕元でこっそり教えてもらった裏の道があったのだ。
路地の奥、民家の軒先を抜けると、そこは崩れかけた古い板塀と、海水の混じったぬかるむ泥溝が入り組んだ超複雑な迷路だった。
普通の草鞋なら一歩で泥に足を取られ、板塀の釘に引っかかって転倒する地獄の悪路。
だが、ここで宗吉の授けた道具が真価を発揮する。
「宗吉……! 頼むぜ、この黒い草鞋!」
伊蔵はスピードを落とさぬまま、壁を蹴り、ドブ板を跳ねて迷路へと飛び込んだ。
泥で滑るはずの路面を、源造親方が仕込んだ特製の厚底ががっしりと捉えて離さない。両手が完全に自由になる「タスキ」だからこそ、狭い板塀の隙間をすり抜ける際も、瞬時に手をついて身体のバランスを保ち、最高速度のまま直角の曲がり角をいくつも駆け抜けることができた。重い竹の棒を担いでいたら、最初の角で塀に激突していただろう。
「なっ……あ、あの泥濘を、跳ぶように抜けていくだと……!?」
街道側から、民家の隙間に伊蔵の紫のタスキが一瞬見え、次の瞬間には遥か先へ消えていくのを目撃した榊が、馬の上で驚愕に声を震わせた。
大名行列の真横を、裏路地の迷路から完全に迂回することわずか数十秒。
岡場所の裏口を鮮やかに突き抜けた伊蔵は、行列の最後尾のさらに先、品川宿の木戸へと何事もなかったかのように猛然と滑り込んだ。
伊蔵はその後順調に走り続け、目の前に、第二区を受け持つ次走者の新吉の姿が見えてくる。
「うおおおおお! 新吉!頼んだぞォ!!」
限界を迎えた肺から声を振り絞り、伊蔵は走りながらタスキを引き抜いた。
スピードを落とさないまま、次走者の肩へとその紫色の紐が鮮やかに掛けられる。
バシィィィン!
確かな衝撃とともに、状箱は第二の韋駄天へと引き継がれ、凄まじい加速で次の一里へと飛び出していった。
その場に倒れ込み、激しく肩で息をする伊蔵の元へ、行列の後方を大きく迂回してようやく追いついた榊が、馬を止めた。
「大名行列をあの裏路地でかわすなど……貴様、あの道をどこで知った……!」
驚愕する隠密を仰ぎ見ながら、伊蔵は汗と泥にまみれた顔で、ニカッと白い歯を見せて笑った。
「へへ……岡場所の可愛い馴染みに、命を救われましたわ。……驚くのはまだ早いぜ、お役人様。俺たちの『えきでん』は、ここからが本番だ!」




