第8話:【7th Lap】「タスキ」が繋ぐ、江戸の駅伝
道具、補給、身体の使い方。俺と千鶴、飾らないが腕は確かな源造親方の試行錯誤によって、個人の走りを極限まで高める仕組みは完成した。
だが、俺が本当に江戸の物流をひっくり返すために用意していた「真打ちの爆弾」は、ここからだった。
すべての始まりは、半月前。町内の名主を通じて江戸の町飛脚問屋へ回ってきた、公儀からの奇妙な「お触れ書き」の回状だった。
書面には、幕府の用向きにより、ある状箱を江戸から駿府まで運ぶ町飛脚を募るとあった。目的や書状の中身は一切秘匿されたままで、ただ冷酷な条件と命令だけが、高圧的な墨文字で突きつけられていた。
期限は「十刻(20時間以内)」。
江戸から駿府までの約四十五里(約180キロ)を、通常の町飛脚の半分以下の時間で駆け抜けろという、あまりにも理不尽な速度試験の通達だった。お上の公認リレーである『継飛脚』が他の公務で手一杯なため、民間の能力を値踏みするという建前だ。不調法の際は厳科に処す、つまりお取り潰しという脅しまでついていた。
「中身も教えねえ怪しい荷物を、十刻で駿府まで運べだぁ? しくじればどんなお咎めを受けるか分かったもんじゃねえ!」
「お上の無理難題に付き合えるか。うちの問屋は辞退だ、辞退!」
大手の飛脚問屋が次々と恐怖して首を振り、諦めていく中――
「そのお触れ、八坂屋が引き受けましょう。ただし、試験の日まで半月の猶予をくだせえ」
ただ一社、八坂屋の親方だけが、俺と伊蔵の顔を見てニヤリと不敵に笑い、手を挙げたのだった。
他社を出し抜く、密かな大博打の始まりだった。
それからの二週間、八坂屋は水面下で完璧な仕込みを行った。
俺が本当にやりたかったのは、一人の天才が長距離を走りきる「定六」でも、各宿場の見ず知らずの労働者にリレーを託す「宿継」でもない。
八坂屋が普段から業務提携している、小田原や駿府の地元の飛脚問屋や飛脚宿のネットワークをフルに活用し、東海道の主要な宿場ごとに、あらかじめ「厚底草鞋」と「千鶴の吸い飴」を持たせた八坂屋の若い衆を『出張』の形で先回りで定駐させたのだ。
中継点の間隔は「四里(約十六キロ)」までを目安にした。
一人が最初から最後まで一秒も緩めずに全力疾走できる限界の距離だ。江戸から駿府までの四十五里を細かく区切り、万全の体力を持った八坂屋の走者たちがバトンを待つ、臨時の専用レーンを街道に敷き詰めたのだ。
そして、裏庭に集まった若手たちに、俺は懐から一本の細長い布の紐を取り出して見せた。千鶴に頼んで作ってもらった、小ぶりの頑丈な薄型文箱をしっかりと固定できる、紫色の布紐――『タスキ』だ。
「これまでの飛脚は、重い竹の棒の先に状箱を挟んで担いで走っていました。でもあれだと、受け渡しの瞬間にどうしても足が緩むし、片手が塞がって『俺が教えた、効率よく腕を大きく振る走り方』の邪魔になります。だから、この文箱ごとタスキを肩から斜めに掛けるんです」
俺は実際にタスキを肩に掛けてみせた。文箱は背中にピタッと密着し、両手は完全に自由になっている。
「四里ぐらいまでの道のりを、最初から最後まで全力で突っ込む。息が切れる頃に次の中継点が見えてくる。そうしたら、この荷物を固定した『タスキ』をそのまま次の仲間の肩へ引っ掛ける。受け取った奴は、体力が万全の状態で、また次の区間を死に物狂いで突っ走る。一人の天才が休み休み走るより、十数人の普通の飛脚が万全の体力で書状を繋いだ方が、全体の速さは圧倒的に速くなります。これを俺の故郷では『駅伝』と呼びます」
「駅伝、ねぇ……。面白ぇじゃねえか。ただ荷物を背負って孤独に走るより、仲間が先で待ってると思えば、いつもより足が前に出そうだ」
伊蔵の目が、プロの飛脚としての矜持を帯びて鋭く光った。
そして本日。半月におよぶインフラの仕込みが完璧に整ったその朝、日本橋の八坂屋に、一人の男が風のように滑り込んってきた。
漆黒の着物に身を包み、鋭い眼光を放つその男――幕府の極秘任務を帯びた密偵・榊だった。
榊は、他の問屋がすべて逃げ出したことを知っている。ただ一社残った八坂屋を冷ややかに見回し、葵の紋が入った重々しい状箱を机にドンと置いた。
「引き受けたのは貴様らだけだ、八坂屋。これが公儀の用意した状箱だ。中身を知る必要はない。……期限は明日の夜明け(卯の刻、午前5時頃)まで、十刻以内だ。遅れれば八坂屋の鑑札は取り消し、全員の首が飛ぶと思え。本当に届くのだろうな?」
公儀のテストという名の無理難題。だが、榊の威圧的な視線を真っ向から受け止め、伊蔵は、フッと不敵な笑みを浮かべた。
「へへ……お役人様、心配御無用。網はもう,東海道に張り巡らせていやがります」
第一区を走る伊蔵が、八坂屋が用意したタスキの薄型文箱へと状箱を厳重に格納し、肩から斜めに掛けた。そして、黒光りする厚底草鞋の紐をギチリと締め上げる。
「宗吉、おめえが作ったあの『えきでん』ってやつ、お上の目の前で試してやろうじゃねえか!俺たち飛脚に裏にある幕府の真意など関係ない。他社が不可能と断じた壁を、俺たちの技術でぶち破るだけだ!」と伊蔵は小さな声で力強く呟いた。
八坂屋の「駅伝物流」が、ついに天下の東海道を揺るがす瞬間がやってきた。




