第7話:【6th Lap】蘭学医の娘と、一歩も止まらない『吸い飴』
道具の改革は成った。だが、俺たちの前には、もう一つの大きな「江戸の壁」が立ちはだかっていた。
――栄養の補給と、水分の摂り方だ。
箱根からの道中、俺は冷まし湯を腹に流し込み、固い糒を必死で噛み砕いた。
だが、走りながら固形物を咀嚼するのは肺を圧迫するし、何より胃腸に血液が集中して、走るための筋肉が急激に弛緩してしまう。しかも、喉が渇いてから茶屋に駆け込んで水を一気飲みするやり方は、一時的に腹が膨れて走るペースを狂わせる。
「――つまり、走りながら片手で吸い込めて、噛まずに喉を通り、一瞬で身体の力に変わる『泥のような食べ物』と、ただの真水ではなく、体にすぐ染み込む『不思議な水』が必要なんです」
八坂屋の奥座敷。俺が紙に炭で書いた要望を覗き込み、千鶴はこれでもかと形の良い眉を吊り上げ、つんと鼻を鳴らした。
「……はあ? 宗吉、あなた、私のことを何だと思っているの? 私はオランダの医学を修めた蘭学医よ。誰がそんな、怪しげな妖術の泥団子なんか作るもんですか。喉が渇いたなら大人しく茶屋で湯でもすすっていなさい!」
「でも、千鶴さんなら、薬を調合するのと同じ理屈でこれを作れるはずです。からだの仕組みを理で分かっているのは、江戸広しといえど千鶴さんしかいませんから。千鶴さんだけが頼りなんです」
「なっ……!、だ、誰があなたなんかのに頼られたって……!」
千鶴は一瞬で顔を朱に染め、ぷいっとそっぽを向いたが、その耳の端は隠しきれずに真っ赤になっていた。
「……で、でも、からだを動かすことで失われる『甘い気(糖分)』と『塩気(塩分)』、そして『酸っぱい気(クエン酸)』を素早く補う、という理屈自体は、まあ……医学的に見どころがないわけでもないわね。勘違いしないで、私はただ、蘭学医としての知的好奇心を満たしたいだけなんだから!」
そうして始まった、俺と千鶴の「共同開発」の日々。
「――動かないでって言っているでしょう! あなたの心拍数……あ、いや、鼓動は、私の大事な研究資料なんだからね!」
ある日の午後。千鶴は俺の胸元に耳を押し当てたまま、きつい口調で言い放った。
だが、その白く細い指先が、俺の鎖骨のあたりに微かに触れるたび、彼女自身の手がかすかに震えている。
千鶴が持つ南蛮渡来の「懐中時計」の秒針がチクタクと音を立てる中、彼女の顔がどんどん赤くなっていく。
「な、何よその顔は! やはりおかしな身体ね! 普通、これだけ走れば肺腑は焼け、心臓は早鐘のように打つはずよ。なのに、あなたの鼓動は重く、深く、まるで大鐘がのんびりと時を告げるようにしか響かない……。ねえ、本当は人間じゃないんでしょう? 白状しなさい!」
「だから言ったじゃないですか。からだを極限まで鍛え上げると、心臓自体が大きく強くなって、少ない拍動でたくさんの血を巡らせられるようになるんです」
「……心臓そのものが、大きくなる?」
俺の言葉に、千鶴はハッとしたように顔を上げた。その距離、わずか数寸。
互いの息がかかるほどの距離に、千鶴の切れ上がった瞳が大きく揺れる。
俺の瞳に映る自分の顔が、信じられないほど真っ赤になっていることにようやく気づいた彼女は、弾かれたように身体を引き剥がした。
「な、ななな、何見てるのよ破廉恥漢! 診察よ、これはれっきとした高尚な医学的診察! 勘違いしたら承知しないんだからね!」
「いや、何も勘違いしてないですけど……」
「うるさいわね! ほら、さっさとこれを飲みなさい!」
怒りをごまかすように、千鶴は木製の椀を俺の口元にぐいと押し当てた。
中に入っているのは、透き通った薄桃色の液体だ。
「え……? これ……」
「……ただの水じゃ、あなたの妙なからだには染み込まないんでしょう? だから、水に少量の塩と、最高級の『白砂糖』、それと、疲れを和らげる『梅干しの搾り汁』を混ぜてみたのよ。オランダの書物にある、生命の水分を補う理屈を応用したの。……文句があるなら残しなさいよ!」
恐る恐る一口飲んでみる。わずかな塩気と、砂糖の淡い甘み、そして梅のほのかな酸味。
(これだ……! 現代の『経口補水液』そのものじゃないか!)
「すごい……! 千鶴さん、これ完璧です! すっと身体に染み渡るのがわかります!」
「ふ、ふん……当然よ! 誰が作ったと思っているの? 朝飯前よ!」
千鶴はふんぞり返るが、その下にある机の上を見て、俺は息を呑んだ。
そこには、失敗作として煤けた、黒い糯米の塊や、酸っぱすぎて飲めない梅汁の竹筒が山のように転がっていたのだ。
蘭学医としてのプライドが高い彼女が、俺の言う「走るための新薬(吸い飴)」を作るために、寝る間も惜しんで何度も配合を変え、己の舌が痺れるまで毒見を繰り返していたことを、俺はその時初めて知った。
千鶴の綺麗な目の下に、うっすらとできた隈が、その凄まじい試行錯誤の熱量を物語っていた。
「千鶴さん、これ……俺のために、もしかして一晩中……」
「ち、違うわよ! たまたま! たまたま夜中に医学書を読んでいたら目が冴えちゃって、ついでに余った糯米に『水飴』と『蜂蜜』を練ってみただけよ! べ、別に、あなたの心配なんか一厘もしてないんだからね!?」
そう言って、彼女は「ほら!」と、乾かした薄い『竹の皮』で筒状に包まれた泥餡を俺の手に押し付けた。
「端を少し噛み切れば、手を使わずに、口の中にそのまま絞り出せるでしょう? ……あなたみたいな大馬鹿者は、走りながらこれを吸って、勝手にどこまでも走っていけばいいのよ!」
その温かい竹皮の包みを、俺は愛おしく見つめた。
試作品を、実際に走りながら口に含んでみる。
噛む必要は一切ない。ドロリとした甘い塊が滑らかに喉を通り、瞬時に胃から体中にエネルギーが染み渡る感覚があった。
「完璧です……! 千鶴さん、これなら走っている最中に胃を壊さないし、なにより『茶屋で腰を下ろして餅を食う』という、五分、十分という無駄な時間を完全に省くことができる!」
俺が本気で感動して、思わず千鶴の両手をギュッと握りしめると、彼女は顔を耳の裏まで真っ赤に染め、完全にキャパシティオーバーを起こしてあわあわと手を引き抜いた。
「な、な、な……っ!? だから、気安く触るなと言っているでしょう、この大馬鹿者! もう知らない! 勝手に走りなさい!」
バタン!と激しい音を立てて奥の部屋へ逃げ込んでしまった千鶴。
だが、ふすまの隙間から、こちらを心配そうに、けれど嬉しそうに覗き見ている可愛い瞳を、俺は見逃さなかった。
翌日、俺と伊蔵は、この千鶴特製の『補水竹筒』と『竹皮の吸い飴』を身につけて街道を走った。
一度も足を止めることなく、走りながら水分とエネルギーを補給する俺たちの姿に、街道沿いの茶屋の親父たちは、驚きで目玉を丸くしていた。
「おいおい八坂屋の韋駄天ども、茶屋に寄りもしねえで、一体何を食って走ってやがるんだ……!?」
一歩も足を止めない、ノンストップの走り。
フォーム、道具、そして――不器用な蘭学医の娘が命を吹き込んでくれた、最強の補給食。
江戸の地に、他社の追随を許さない圧倒的な走りのシステムが揃った瞬間だった。




