第6話:【5th Lap】チートは、まず足元から
品川からの帰り道、すっかり自信を失ってトボトボと歩く伊蔵を連れて、俺はある場所に立ち寄っていた。
八坂屋が出入りにしている、江戸でも指折りの腕を持つ草鞋職人・源造の仕事場だ。
「宗吉よぉ……。おめえ、あの速さは一体何なんだ。糒を食いながらあの速度で走るなんて、本当に人間かい?」
「人間ですよ。ただ、俺の頭の中に、走るための『道具の理屈』がちょっとばかり多く入ってただけです。……ところで、源造の親方。折り入って相談があるんですが」
俺は仕事場の土間に腰掛け、源造の前に昨日ボロボロに履き潰した草鞋と、道中でちぎった紙に炭で描いた図面を広げた。
「なんだい、八坂屋の小僧。そりゃあ草鞋の図面かい? だが、ありゃあ随分と妙な形をしてるねぇ」
源造は頑固そうな太い眉をひそめ、図面を覗き込んだ。
「ええ。これまでの草鞋は、ただ足裏を怪我から守るためだけの『平らな板』でした。でも、俺が作りたいのは、足の力を何倍にもして路面に伝える『車輪』のような草鞋なんです」
「車輪だぁ? 戯言を言うねぇ。草鞋ってなあ、薄くて軽いのが一番んだ。泥を掴み、足に吸い付く。余計なものをつけたら、重くなって走れやしねえよ」
親方の言うことは当時の常識としては正しい。だが、現代の最先端シューズの理屈は逆だ。衝撃を吸収し、その反発を前に進む力に変える。
「じゃあ親方、いっしょに試行錯誤してくれませんか。俺の故郷の『走るための履物』には、三つの仕掛けがあるんです」
俺は図面を指さしながら説明を始めた。
「一つ目は、地面に足を突いたときの衝撃を和らげる『厚い詰め物』です。これは、ただ藁を厚く編むだけじゃ駄目なんです。藁は一度踏み潰されたら硬くなって、二度と弾まなくなる」
「そりゃそうだ。藁は一度潰れりゃそれまでよ。衝撃を逃す弾力なんざ持たねえ」
「だから、素材を変えます。裏地に使うのは、中が中空になっていて弾力のある『藺草』、それと、よりしなやかで弾力のある『菅』です。これを、中を空洞にするように立体的に重ねて編み込みます」
「菅か……。なるほど、三度笠や高級な草履に使うな。確かに水に強くて弾力があるが、それだけじゃ着地の時に足がぐらついて、足首を捻るぞ」
職人の鋭い指摘。そう、厚底シューズの最大の弱点は「着地時のブレ」だ。現代ではソールに硬いカーボンプレートを挟むことで、足のブレを防ぎつつ、バネのような反発力を生み出している。
「そこで二つ目、バネの板です。このイグサの層の中に、薄く削り出した『鯨の髭』、あるいは弾力のある『割竹』を仕込みます。これにより、着地した時に草鞋が横にねじれるのを防ぎ、かつ、しなりを利用して足を前に押し出すバネにします」
「ほう……! 鯨の髭か! 万年筆の先や傘の骨に使う、あのしなやかで折れない素材だな。確かにあれを芯にすれば、薄くても鉄の板みてえな弾力が出る」
源造の目が、がぜん真剣な職人の光を帯びてきた。
「そして三つ目が『転がる形』です。爪先側をなだらかに反り上げるように編んでください。これにより、重心を前に乗せるだけで、足が自然と前方に転がるようになります。……ですが親方、最後に問題があります」
「なんだ」
「このままだと、東海道の砂利道やぬかるみで、草鞋の裏がすぐに擦り切れてバラバラになります。摩耗に強くてよく滑り止めの効く底板が必要です」
源造は腕を組み、うーむと唸りながら、仕事場に転がっている素材を見回した。そして、ポンと膝を叩いた。
「よし、ならこうしよう。一番底の層には、丈夫な麻糸で編んだ『麻紐』を使い、そこに『松脂』と『生漆』を練り合わせた特製の糊を染み込ませる。これを乾かせば、革のように硬く、かつ水を通さねえ頑丈な底ができる。滑り止めに砂を少し混ぜ込んでおけば、雨の街道でもビタッと止まる極上の底板になるはずだ!」
「さすが親方……! それです!」
それから三日間、俺と源造は仕事場にこもり、試作と失敗を繰り返した。
竹が硬すぎて足裏を痛めれば、鯨の髭の厚みをミリ単位で削り、漆の調合が硬すぎてひび割れれば、松脂の割合を増やして柔軟性を持たせる。
そして四日目の朝。
仕事場に呼び出された伊蔵の前に、少し爪先が反り上がり、裏がぷっくりと厚く編まれた、黒光りする見たことのない形状の『厚底草鞋』が並んでいた。
「伊蔵さん、履いてみてください。俺たちの試行錯誤の結晶です」
「おう……。おいおい、何だかおかしな気持ちの悪さだな、これ……。踵が浮いてるみてえだ」
「それが、前に倒れる推進力です。そのまま、表の通りを走ってみてください!」
伊蔵は半信半疑で、漆で補強された紐をキツく縛り上げ、路地へと飛び出した。
そして、いつものナンバ走りの要領で一歩を踏み出した。
「う、嘘だろ……!?」
数歩走ったところで、伊蔵が弾かれたように立ち止まり、大声を裏返した。
「おい、宗吉! 足が……勝手に前へ弾き出されやがる! それに、砂利を踏んでも足の裏がちっとも痛くねえ! いつもなら十里も走りゃあ足裏がジンジンして走れなくなるってのに、これならどこまでだって走れそうだぜ!」
「これが、走るための正しい『理』と、江戸の職人の技の融合ですよ、伊蔵さん」
俺は腕を組み、満足そうに煙管をふかす源造と顔を見合わせてニヤリと笑った。
セリフの上では江戸の言葉に合わせた。だが、俺の胸の中は確信で満ちている。これこそが、現代のスポーツ科学がもたらした、合理的で圧倒的な「走りの進化」そのものだ。
道具の改革は成った。
江戸の飛脚たちが「ただ根性とフィジカルで走る」時代に、俺たちは「技術」という名の、最大の爆弾をぶち込んだのだ。




