第5話:【4th Lap】「ナンバ」の男と、山の神
「――認めねえ。俺はハナから認めねえぞ」
翌朝。八坂屋の裏手にある、荷物の積み下ろしを行う広い空き地で、俺の前に仁王立ちしていたのは伊蔵だった。
彼は八坂屋のエース飛脚であり、江戸でも三本の指に入る韋駄天だ。
「宗吉よぉ。おめえが昨日、小田原から半日で走ってきたってなぁ、何かの間違いだろ。糒を噛みながら走るだけでも、腹がよじれてまともに走れねえのが普通なんだ。おめえみてえなペーペーが、俺たちの『ナンバ走り』より速く、それもそんな短時間で走れるわけがねえんだよ!」
伊蔵の言い分はもっともだった。彼らは代々、この街道を生き抜くために受け継がれてきた伝統の走法に、命と誇りを賭けている。
「じゃあ、伊蔵さん。少しだけ、一緒に走りませんか。お互いの走る姿を見れば、何かわかるかもしれません」
俺は千鶴に薬を塗ってもらった足の裏を確かめ、新しい草鞋の紐を締め直しながら、不敵に笑った。
「あぁ? いいぜ。ナンバの真髄ってやつを、その目に焼き付けさせてやろうじゃねえか!」
二人は並んで、日本橋から品川宿までの往復――約三里半(約十四キロ)を走ることになった。
「せーのっ!」
掛け声とともに、伊蔵が滑るように飛び出す。
右手と右足、左手と左足を同時に出す、美しいナンバ走りだ。
肩を揺らさず、ひねりを作らない。軸が全くぶれず、地を這うように滑らかに進む。長距離を「疲れないように」「身体を壊さないように」移動する上では、数百年の歴史が証明した完璧な省エネ走法だ。おまけに腰の荷物や刀が揺れないという、この時代において究極に合理的なシステムだった。
だが、俺はその横を、現代のフォームで並走した。
背筋を伸ばし、わずかに骨盤を前傾させ、腕を大きく後ろに引く。
「な、なんだその面妖な走りは!? 上下にピョコピョコ跳ねやがって、そんなんじゃすぐに息が切れるぞ! 腹の糒が暴れて横腹が痛くなるのがオチだ!」
伊蔵が並走しながら驚きの声を上げる。だが、俺は息を乱さず答えた。
「いいえ、伊蔵さん。これは肩甲骨を引くことで骨盤を前に送り出し、地面を『蹴る』んじゃなく、地面からの『反発力』を推進力に変えているんです。上下に跳ねているように見えて、身体の重心はまっすぐ前に滑り込んでいます」
江戸の境界である高輪の大木戸を抜け、品川宿の入り口で折り返す。
往路を過ぎ、距離にして二里半(約十キロ)を越えたあたり。
伊蔵の額に汗が滲み、呼吸が荒くなり始めた。
どんなに省エネのナンバ走りとはいえ、俺のスピード(キロ4分30秒ペース)に無理に合わせようとしたからだ。ナンバ走りの最大の弱点は、「最高速度の限界値」が低いことにある。
「ここから、少し上げますね。ついてきてください」
俺はストライド(歩幅)をわずかに広げ、ピッチを一段階上げた。
「あ、おい……待てっ……、待ちやがれ、宗吉……!?」
伊蔵の視界の中で、俺の背中がみるみる小さくなっていく。
ただ速いだけじゃない。どれだけ走っても全くフォームが崩れず、まるで精密な機械のように正確なリズムを刻み続ける俺の走りに、江戸のエースは絶望的なまでの「格の違い」を見せつけられることになった。




