第4話:【3rd Lap】日本橋の怪物と、低すぎる心拍数
スマホのGPSもGoogleマップもない江戸の東海道。だが、迷うことはなかった。
頭の記憶は橘宗一だが、この肉体は『八坂屋の見習い・宗吉』だ。品川、川崎、神奈川……肉体に刻まれた宿場の記憶が、正確なナビとして俺の足を導く。
だが、さすがに現代のアスファルトとは違う、砂利と泥の街道だ。薄い草鞋の衝撃がダイレクトに膝に響き、五里(約二十キロ)を過ぎたあたりで猛烈な渇きとエネルギー切れが俺を襲った。
いくら心肺が「山の神」でも、人間である以上、無補給で百キロを走りきれるわけがない。
「すまねえ、おやじさん! 冷まし湯をくれ!」
俺は街道沿いの『立場茶屋』に飛び込み、椀の湯をガブガブと三杯、一気に煽った。
横では、他社のベテラン飛脚たちが腰の袋から乾燥させた米である『糒』や『焼き米』を鷲掴みにして口に放り込み、ガリガリと噛み砕いては湯で腹に流し込んでいる。さらに店先の『梅干し』を齧って強引に塩分を補給していた。これが、一日に一升もの米を食うという、江戸の韋駄天たちの凄まじいエネルギー補給の現実だった。
「ごちそうさん! 銭は帰りに八坂屋にツケといてくれ!」
俺も彼らに倣い、糒を掴んで口に放り込み、梅干しを噛み締めながらすぐに茶屋を飛び出した。正直、固形物の米は咀嚼に時間がかかるし、胃に血が巡って走りのパフォーマンスは落ちる。だが、今はこれしか燃料がない。
そうして数回、茶屋でのわずかな給水と補給を挟み、歩き(ナンバ歩き)を交えて筋肉を労わりながらも、俺は前を行く飛脚たちを「ペースメーカー」代わりに捉え、フォアフット着地の爆速で次々とゴボウ抜きにしていった。
そして。
「……つ、着いた……!」
日本橋の袂。町飛脚問屋「八坂屋」の暖簾をくぐった時、時刻はまだ当日の「暮れ六つ(午後六時頃)」だった。
箱根からの百キロを、俺は休憩や補給の手間を挟みながらも、周囲の予想を遥かに裏切り、わずか十二時間ほどで駆け抜けたのだ。
「お、おいおいおい! 宗吉じゃねえか! おめえ、箱根で馬に撥ねられたって聞いてたが……」
出迎えた八坂屋の番頭が、俺の顔を見るなり幽霊でも見たかのように顎を外した。
「手紙、届けました……。小田原の商家からの、急ぎの書類です」
文箱を差し出すと、番頭はそれを受け取る手を変に震わせている。
「ば、馬鹿言っちゃいけねえ……。小田原を今朝方出た書状が、なんでぇ、日の入り前にここに届くってんだ!? 道中で休み休み走ったって、丸一日はかかるってのに!」
「おい、宗吉、しっかりしねえか!」
問屋中が蜂の巣をつついたような騒ぎになる中、俺の身体は限界を迎えていた。
やはり江戸の補給食と草鞋での百キロ強行軍は過酷だった。足の裏は血と水ぶくれでボロボロ、強烈な脱水症状で視界がチカチカする。
俺はそのまま、八坂屋の土間に倒れ込んだ。
「――静かに。今、あなたの命の音を聴いているところよ」
次に目を覚ました時、俺は八坂屋の奥の部屋で、誰かに胸元へ直接耳を当てられていた。
のぞき込んできたのは、形の良い眉をひそめた、きりりとした佇まいの美女だった。着物の袖をまくり、どこか薬草の匂いを漂わせている。
「気がついたかい、宗吉。こちらは長崎から来られた蘭学医の娘、千鶴お嬢様だ」
傍らで心配そうに見守っていたのは、飛脚の兄貴分である伊蔵だった。
「……千鶴、さん……」
「動いちゃ駄目。それより、あなた……本当に人間なの?」
千鶴は俺の手首に指を当て、南蛮渡来の懐中時計を見つめながら、驚愕に顔を染めていく。
「信じられないわ。茶屋で数回の補給をしただけ、それもこれだけ激しく走って倒れたというのに、あなたの脈、普通の人の半分しか打っていないわ。一呼吸の間にふたつしか打たないなんて。完全に命が絶えかけているか、それとも――」
(耳が胸に当たっててめちゃくちゃドキドキするんだが、それでも脈拍が変わらないのがスポーツ心臓の悲しいところだな……)
「あ、いや……それは『スポーツ心臓』っていうか、長年走り込んでると心肥大を起こして、一回の拍動で送れる血液量が増えるから……」
「すぽーつ……しんぞう? 拍動の、効率……?」
千鶴の目が、医学者特有の鋭い光を帯びてギラリと輝いた。
「面白いわね。衣服の上からでも分かる、無駄のない大腿の筋肉のつき方といい、その妙な遅い脈といい、あなたの身体、医学的に興味が尽きないわ!」




