第3話【2nd Lap】現代走法、江戸を駆ける
高嶋屋の親父さんと楓の制止を振り切り、俺は箱根の街道に立った。
文箱を斜めがけの紐でしっかりと身体に固定する。
「よし……」
軽くジャンプして、足裏の感覚を確かめる。
クッション性ゼロ。ナイキの厚底シューズが恋しいが、文句を言っても始まらない。草鞋の紐を、足首にこれでもかとキツく縛り付けた。
ここから江戸の日本橋までは、およそ二十五里。キロメートルに換算すれば約百キロだ。
普通の飛脚なら丸一日、見習いなら二日。だからこそ、高嶋屋の親父は「明日の昼には間に合わない」と諦めていた。
だが、俺の胸の奥で、カチリとスイッチが入る音がした。
現代のトップランナーなら、ウルトラマラソンの百キロは6時間台で走破する。未舗装の道路とこの草鞋というデバフを考慮しても、俺の足なら、今日の夕方――日の入りまでには日本橋に滑り込める。明日の昼なんて生ぬるいタイムスケジュール、俺のプライドが許さない。
「――見せてやるよ。現代駅伝のスピードってやつを」
街道の先から、別の問屋の飛脚が走ってくるのが見えた。
上半身をほとんど動かさず、右手と右足、左手と左足を同時に出すような奇妙な走り方。あれが江戸時代の効率的走法『ナンバ走り』か。
上下動を減らし、長距離を「疲れないように」移動する。確かに理にかなっているが――いかんせん、巡航速度が遅すぎる。時速にして十キロ未満だ。
俺は深く息を吸い、地面を蹴り出した。
ナンバ走り? 知るか。俺がやるのは、現代スポーツ科学の結晶だ。
まず、体幹を意識して一本のぶれない軸を作る。
顎を軽く引き、目線は前。
腕振りは後ろに引くことを意識して、肩甲骨から動かす。これにより、骨盤が自然と前方に回転し、足が前に出る。
跡は――着地。
草鞋の薄さゆえに、かかとから着地したら一発で膝を痛める。だからこそ、爪先側から入る『フォアフット着地』だ。アキレス腱とふくらはぎの筋肉を限界までバネとして使い、地面からの反発を最小限の接地時間で前への推進力に変える。
タタタタタタタタッ!!
街道の砂利を蹴る音が、明らかに他の飛脚と違っていた。
圧倒的なピッチ(歩数)と、伸びやかなストライド。
「な、なんだあいつは!?」
「八坂屋の宗吉か!? 跳ねてるみたいに走ってやがる!」
すれ違う同業の飛脚たちが、目玉が飛び出んばかりに驚愕の表情を浮かべる。
それもそのはずだ。俺の体感速度は、現在キロ4分30秒(時速十三・三キロ)。江戸の飛脚たちの倍近いスピードだ。
坂を下る。
前世の箱根5区は「登り」だったが、復路の6区は「下り」だ。
下り坂での重力を利用した加速。太ももの大腿四頭筋でブレーキをかけない、滑らかな重心移動。
風が,俺の長い前髪を吹き飛ばしていく。
(走れる……! 走れるぞ、俺はまだ、生きている!)
トラックに撥ねられて潰えたはずの俺のランニングライフが、この江戸の地で、今、爆発するように再開していた。
アスファルトじゃない。給水所もない。サプリメントもない。
だけど、この足にかかるG(重力)と、風の抵抗、そして心臓の鼓動は、あの箱根そのものだ。
「待ってろよ、江戸の日本橋……!」
山の神と呼ばれた男の、江戸時代最初の「1レップ(一歩)」が、東海道の土を力強く踏み荒らしていった。




