第10話:【9th Lap】突発の試練、泥流を越える智慧
伊蔵から紫のタスキを受け継いだ第二走者の新吉は、街道の旅人たちをごぼう抜きにしながら、順調に快足を飛ばしていた。
源造親方の作った厚底草鞋(衝撃吸収の履物)の推進力は、間違いなく東海道の飛脚の常識を破壊しつつあった。
後方を馬で追う密偵・榊の顔には、もはや侮りの色はひとかけらもない。
(これほどの速度を持続させる仕組み、一体誰が考えついた……。もしや八坂屋の背後に、公儀を脅かす異国か何かの影があるのではないか)
榊がそんな不穏な疑念を抱くほどの圧倒的な激走。
だが――東海道は、そう簡単に俺たちの現代科学を走らせてはくれなかった。
武蔵の国と相模の国を分ける大きな壁――多摩川の「六郷の渡し」に差し掛かった時のことだ。
「おい、待ちねえ! 八坂屋の! 今は川を渡れねえぞ!」
渡し場の船頭たちが血相を変えて叫んだ。
見れば、川岸には大勢の旅人や他の飛脚たちが足止めを食らい、殺気立った人だかりができている。
「な、なんだって!? 船が出ねえのか!?」
新吉が激しく息を切らせながら足を緩める。
「上流で大雨が降ったせいで、急に水嵩が増しやがった! 流れが急すぎて、お上の御用船以外はしばらく川を渡すんじゃねえって役人からお達しが出たんだよ!」
新吉の顔から、一瞬で血の気が引いた。六郷の川幅は普段でも六十間(約百十メートル)を超える。増水したこの濁流を前に船が止まれば、一分一秒を争う二十時間の制限時間が、無慈悲に削り取られていく。
そこへ、遅れて馬を乗り入れた榊が、鋭い声を浴びせた。
「船頭、私は公儀の者だ! 公儀の御用船を今すぐ出せ!」
「は、ははっ! ですが、先ほどお上の使番様方がその御用船をすべて徴用して下流へ向かわれちまいまして……。今ここにあるのは民間の渡し船だけでございます!」
「何だと……!?」
榊が舌を打つ。今この場にはお上の船がただの一隻もない。通常の飛脚なら、ここで諦めて川の減水を待つのが当たり前だ。しかし、ここで数時間も待たされれば、その時点で八坂屋の敗北が決まり、全員の首が飛ぶ。
「新吉ーーー!! 何を遊んでやがる、こっちだ!!」
濁流の向こう岸――川崎宿側の川縁から、喉が裂けんばかりの怒声が響いた。
第三区の走者として待機していた、八坂屋のベテラン飛脚、長次だった。長次はすでに厚底草鞋を履き、激しく波立つ対岸の川縁に立っていた。
「長次さん! でも、船が……!?」
「泳いで渡るなんて無茶はするなよ! 荷物が水浸しになっちまう!」
長次の叫びに、新吉は歯を食いしばった。これだけの川幅の激流だ、命がけで飛び込んだところで、預かり物の状箱を濡らしたり流失させたりすれば、飛脚としてはその時点で終わりだ。
(船が使えねえなら、どうする……? どうやってあの向こう岸まで、このタスキを届ける……!?)
渦巻く泥流を睨みつける新吉の目に、両岸の間にピンと張られた一本の太い麻縄が映った。増水時に船を引くための「繰り綱」だ。
船は出せなくとも、お上が張ったあの強靭な麻縄だけは、濁流の上を真っすぐに貫いて生きている。
新吉の脳裏に、ふと、ある過去の光景がよぎった。
飛脚になる前、大工の見習いをしていた時期に、深い渓谷の工事現場で見た、縄と滑車で人間や資材を運ぶ「渡し籠(空中ケーブル)」の技術だ。
「……よし、あいつの出番だ」
新吉は踵を返し、渡し場の船着き小屋へと突っ込んだ。
船頭たちが呆気に取られる中、小屋の隅に転がっていた荷物搬送用の頑丈な竹編みの「背負い籠」を引きずるようにして引っ張り出す。さらに、大工用の墨出しや凧揚げに使う細く強靭な「麻の凧糸(水糸)」と、使い古された木製の滑車(木輪)、裏手に転がっていた割竹の端材を掴み取った。
「おい、八坂屋! こんな時に何をする気だ!」
榊が馬の上から鋭い声を上げるが、新吉は答えず、職人の目を爛々と輝かせた。
「船頭さん、ちょっと道具を借りるぜ!」
ここから新吉の手さばきは、まさに大工そのものだった。
焦る気持ちを抑えつけ、激流の凄まじい振動に耐えうるよう、籠の縁に割竹を十文字にあてがう。それを太い麻縄でギチギチと力を込めて巻き上げ、歪まない頑丈な骨組みを的確に作り上げていく。その十文字の芯へ木製の滑車をあてがうと、大工仕込みの「男結び」で微塵もブレぬようがっちりと固定した。
息を呑む船頭たちの前で、ものの数十分で、即席の「渡し籠」が新吉の手によって組み上がったのだ。
「よし……あとは向こう岸の長次さんに、こっちから引っ張るための『引き縄』をどうやって渡すかだ」
川幅は百メートル以上。普通に投げても絶対に届かない。
新吉は大工の目で、川の流れと地形を瞬時に観察した。
「長次さん! 下流のあの中州の先だ! あそこなら、流れのヨレで一番川幅が狭まってる!」
新吉の叫びに応え、長次も対岸の浅瀬を走り出す。新吉は厚底草鞋のグリップ力を活かし、ぬかるむ泥濘を爆発的な踏み込みで駆け抜け、川にせり出した中州の最先端、水飛沫が顔を叩く限界のキワまで突っ込んだ。
対岸の長次との距離――およそ十数間(約二十五メートル)。ここなら、届く!
新吉は凧糸を手頃な重さの滑らかな川石にギチギチに括り付けた。
「長次さん! 凧糸をつけた石を投げる! 受け取ってくれ!!」
新吉は右腕を大きくしならせ、厚底草鞋で泥を蹴り上げると、対岸の長次めがけて渾身の力で石を投げ放った!
「うおおおおおッっ!!」
ビュォッ! と風を切って飛んだ石は、泥流の上空を鋭く突き抜け、対岸の長次のすぐ手前の泥地へとバシャリと突き刺さった。
「よっしゃあ! 捕まえたぜ新吉ぃ!!」
長次が泥まみれになりながらその凧糸の端をがっしりと掴み取る。
新吉はすかさず、自分の手元にある凧糸の端に、渡し場にあった中太の「引き縄」を結びつけた。
「長次さん、引いてくれ!」
長次が細い凧糸を引くと、その先についた引き縄が濁流を渡っていく。引き縄が対岸に届いた瞬間、六郷の川の上に、繰り綱と並行する臨時のラインが一本完成した。
新吉は、千鶴が油紙で厳重に包んでくれた「紫のタスキ(文箱)」を、即席の渡し籠の中にしっかりと括り付けた。武骨だが頑丈な割竹の骨組みが、中の文箱を護る盾となる。さらに、籠の側面に、長次へと渡した引き縄を結びつける。
頭上の繰り綱に、籠の上部の滑車をカチリとはめ込んだ。
「長次さん! 準備はいいか! 思いきり引けぇぇぇ!!」
「おうよ! 八坂屋のタスキ、引き受けるぜ!!」
対岸の長次が、背中を丸めて引き縄をぐいぐいと全力で手繰り寄せ始めた。
木製の滑車がカラカラと甲高い音を立て、タスキを乗せた即席の渡し籠が、猛り狂う濁流の上空へと滑り出す。
だが、相手は百メートルを超える川幅だ。
川の中ほどに差し掛かると、強烈な川風と下からの水飛沫が籠を激しく叩き、激しく揺さぶる。縄の自重によるたるみも加わり、長次がどれだけ腕の筋肉をはち切れんばかりにして引いても、籠は泥流の上で遅々として進まないように見えた。
引いては手繰り、引いては手繰る。
じりじりとした、あまりにも長く感じられる時間が流れる。
馬上の榊は無言のまま、懐中時計の秒針がチクタクと刻む音をじっと睨みつけていた。一分、二分、三分……。泳ぐよりは遥かに早いが、全力疾走の駅伝において、この何もできずに籠を待つ数分間は、新吉にとっても胸が焼け付くほどの猛烈な焦燥だった。
「長次さん! 負けるな! あと少しだ!!」
新吉が声を枯らして叫ぶ。長次の手の平からは縄との摩擦で血が滲み、厚底草鞋が泥に深くめり込んでいく。
そして、籠が川を渡り始めてから、およそ四分。
限界まで引き絞られた長次の腕が最後のひと振りを終え、即席の渡し籠は一滴の水も浴びることなく、ついに川崎宿側の岸へと到達した。長次の手が、確実にそのタスキをひったくる。
「確かに、受け取ったぜ……新吉ぃ!」
長次は籠からタスキを素早く解き外すと、みずからの肩へと斜めに掛け直した。油紙に包まれた文箱は完全に無傷、中の状箱も当然無事だ。
「行ってくるぜ!!」
長次が踵を返し、厚底草鞋で川崎宿の街道へと爆発的な一歩を踏み出す。
遅れて、下流の浅瀬を馬で大きく迂回して渡ってきた榊が、ようやく対岸にたどり着いたときには、長次が上げる土煙の彼方だった。
榊は、新吉が残された対岸を振り返り、それから自分の手元にある懐中時計を見た。
渡し籠の作製から移動を含め、半刻にも満たぬわずかな時間。しかし、この大増水の多摩川を、船も使わずにこれほどの速さで荷だけを渡してみせたのは、江戸の物流の歴史において奇跡以外の何物でもない。
「川を渡らず……渡し籠の技術で関門を抜けたか。なんという臨機応変な智慧……!」
驚愕する隠密の視線を背中に感じながら、新吉は川岸で大きく肩で息をし、泥にまみれた顔でニヤリと不敵に笑ったのだった。




