第11話:【10th Lap】天下の険、山の神覚醒
多摩川の大増水を元大工・新吉の機転によって切り抜け、川崎宿側からタスキを引き継いだベテラン飛脚、長次。彼は渡し籠のロープを手繰り寄せた腕の激痛に耐えながら、意地で激走した。
長次からタスキを受け取った八坂屋の若手飛脚二人は、小田原までの残りの平地を分担し、限界の韋駄天走りで中継。源造親方の厚底草鞋(衝撃吸収の履物)の威力を遺憾なく発揮し、湘南の海風を切り裂いて、淀みなくタスキを西へと進めていった。
いよいよ東海道最大の難所、箱根の山陰が目前に迫る小田原宿。そこには、今回の速度試験のために八坂屋があらかじめ手配していた定宿の旅籠の軒先があった。
最後の平地を担った若手飛脚が、全身から激しく湯気を立ち上らせながら、その宿場の前に滑り込んできた。
「ハァ、ハァ、ハァ……! みんなのタスキ、繋いだぞ……!!」
宿場の軒先で、静かに精神を研ぎ澄ませていた一人の男が目を見開く。
この無謀な駅伝の仕掛け人――宗吉だ。
宗吉の足元には、源造親方がこの山登りのためだけに特別に打ち上げた、つま先が高く、斜面でも絶対に滑らない『山登り専用・厚底草鞋』が鈍い光を放っている。
「お見事! 八坂屋のみんなの執念、確かに受け取った!」
バシィィィン!!
互いの手の平が激しくぶつかり、仲間が命がけで繋いできた紫のタスキが、ついに宗吉へ渡された。
走り終えた飛脚はその宿場の板間に倒れ込み、激しく息を切らせながらも、不敵に笑った。
「後は……任せたぜ、宗吉……!」
「応!」
宗吉はタスキを肩に斜め掛けにすると、すぐさま踵を返し、箱根の激坂へと一歩を踏み出した。
遅れて馬を走らせてきた隠密の榊は、宿場の前で倒れ込む飛脚を一瞥し、すぐさま宗吉の背中を追って険しい山道へと馬を乗り入れた。
(ここからが本番だ、八坂屋。いかに平地で淀みなくタスキを繋ごうとも、この『天下の険』箱根の坂は、人間の足を容易に破壊する。ここで貴様らの化けの皮を剥ぎ取ってくれる)
榊の冷徹な確信の通り、箱根の山は異次元の地獄だった。
急勾配なんて生易しいものではない。雨上がりの足元はドロドロの泥濘と化し、一歩踏み込むたびに体力が無慈悲に削られていく。
いかに事前に栄養を蓄えて挑んだとはいえ、終わりの見えない激坂の連続に、宗吉の太ももの筋肉は悲鳴を上げ、急激な息切れと激しいエネルギー切れが彼を襲った。
(くそ……脚が、動かねえ……。呼吸が追いつかない……!)
肺が焼けるように熱い。頭が朦朧とし、一歩を踏み出す力すら失われかける。
馬上の榊が、冷ややかに言い放った。
「そこまでのようだな、八坂屋。やはり天の険には勝てなんだか」
宗吉が膝をつきかけた、その時だった。
「……宗吉さん! 駄目、倒れては駄目です!」
薄い霧が立ち込め始めた山道の脇から、静かだが、驚くほど芯の通った少女の声が響いた。
見れば、そこには箱根の峠の茶屋『高嶋屋』の娘――楓が、両手でしっかりと木盆を抱えて立っていた。
箱根で不慮の事故に遭い、この見知らぬ江戸時代へと魂ごと放り出された宗吉。その時、行き倒れていた彼を見つけ、彼を優しく、しかし懸命に介抱してこの世界へ繋ぎ止めてくれたのが、他でもないこの楓だった。
「楓……ちゃん……?」
朦朧とする意識の中、宗吉はその恩人の顔を見つめる。
「お話しは後です。これを口に!」
大人しい普段の佇まいからは想像もつかないほど、楓の引き締まった瞳には強い決意が宿っていた。彼女は盆の上の器から、白い塊をすくい上げると、宗吉の口元へと差し出した。
それは、高嶋屋名物のすり餅に塩と砂糖をまぶした栄養食。そして、竹筒に入った温かい薬湯――現代の栄養ドリンクの理論に基づき、塩分と糖分、さらに疲労を回復させる生薬が完璧に配合された一杯だった。
宗吉がそれを一気に噛み締め、飲み干した瞬間、濃厚な糖分と塩分が渇いた喉を通って全身の血流へと爆発的に染み渡っていった。脳の霧が一瞬で晴れ、死にかけていた筋肉に、凄まじい熱量が再充填されていく。
「……美味い。生き返った……!」
宗吉の目に、鋭い眼光が戻った。
それを見届け、楓はそっと胸をなでおろす。その指先は、少しだけ震えていた。
じつは数日前、江戸の蘭学医である千鶴から、高嶋屋宛てに一通の手紙と、見たこともない薬と緻密な処方箋が届いていた。
『宗吉という男が箱根を走ります。彼は必ず途中で限界を迎える。どうかこの配合で栄養を詰め、彼を救ってあげてください』と、そこには切切とした願いが綴られていた。
江戸の最先端の医学を修め、遠い箱根の地まで宗吉を案じて完璧な指示を送ってくる、千鶴という女性。
手紙を読んだ時から、楓の胸の奥には、憧れと同時に、小さな、けれど消えない澱のようなものが生まれていた。
(あの時、身元のわからない宗吉さんを最初に救ったのは、私だったはずなのに……。今の宗吉さんの身体の仕組みを、戦いを、誰よりも知り尽くし、心を砕いているのは、江戸にいるあの千鶴先生……)
おとなしい彼女だからこそ、その静かな嫉妬は胸の奥で深く熱く疼いていた。
「……宗吉さん」
立ち上がろうとする宗吉の衣服の袖を、楓はほんの少し、指先で小さく掴んだ。
「ん? どうした、楓ちゃん」
「江戸の……千鶴先生という方は、その……宗吉さんにとって、どのようなお方なのですか?」
うつむき加減に、しかし真っ直ぐに自分を見つめてくる楓の瞳に、宗吉は一瞬きょとんとした。だが、すぐにいつもの不敵な笑みを浮かべ、自身の足元にある厚底草鞋と、胸のタスキをポンと叩いた。
「どういう人、って言われてもな。俺たちの無茶を、誰よりも科学の力で支えてくれる、八坂屋に欠かせない最高の頭脳だよ。……いや、それ以上かな。あいつが信じて送り出してくれたから、俺はこんな坂じゃ絶対に倒れねえんだ」
濁りのない、絶対的な信頼。
それを受け止めた楓は、一瞬だけ寂しそうに目元を揺らしたが、すぐに凛とした、芯の強い笑顔を作って袖を離した。
「……そうですか。ならば、その信頼に背いては男が廃りますね。……さあ、行ってください、宗吉さん!」
「おう! 恩に着るぜ、楓ちゃん! 代金は江戸へ帰ったら必ず払う!」
宗吉はそう叫ぶと、地面を深く蹴り上げた。
この世界で最初に自分を救ってくれた楓が、静かな情熱で手渡してくれた最高の燃料のおかげで、自然と力が湧いてくるのを宗吉は感じた。
宗吉の身体が、まるで平地を突っ走るかのように、箱根の激坂を上方へと向かって文字通り「飛ぶように」加速した。
泥濘を物ともしない厚底のグリップ力、そして一切ブレない完璧な前傾姿勢。
一歩で進む歩幅が、登り坂とは思えないほどに広い。
「な……何だあの速さは!? 坂を登っているのだぞ!?」
榊が驚愕し、馬の腹を激しく蹴るが、急勾配の泥道では馬の足の方が滑り、宗吉の速度に全く追いつけない。
楓は、霧を切り裂いて山頂へと猛然と駆け上がっていく宗吉の背中を、ぎゅっと胸の前で木盆を抱きしめながら、じっと見つめていた。
「あのお方は……人間の足じゃない。まるで……箱根の、山の神だ……!」
あの雨の日、自分の手の中で震えていた「迷い人」が、今、大勢の仲間と二人の女性の想いを背負い、誰も見たことのない韋駄天となって天へと駆け上がっていく。
楓は小さく「……格好よすぎますよ宗吉さん」と呟き、その背中をいつまでも見送り続けるのだった。




