第12話:【11th Lap】箱根関の罠、漆黒の夜道を風と奔れ
山肌を叩く足音すら置き去りにし、霧を切り裂いて疾走する一つの影があった。
峠の茶屋『高嶋屋』の娘、楓が手渡してくれた特製の高栄養食と薬湯――江戸の千鶴が、この世界で最初に宗吉を救った楓へと託した「絆の燃料」が、宗吉の五体に満ち満ちていた。
呼吸は深く、一定。蘭学医・千鶴に叩き込まれた、山を登るための解剖学的な正しい前傾姿勢は微塵もブレない。足元を支える源造親方の『山登り専用・厚底草鞋』は、泥濘を鷲掴みにして宗吉の身体を上方へと滑らかに押し上げていく。
だが、小田原からの過酷な登坂は、確実に八坂屋の時間を削り取っていた。
ついに東海道最大の難関、「箱根関所」の門が見えた時――山々にゴォォォン、と重々しい入相の鐘が響き渡った。日没を告げる「暮れ六つ(午後六時)」の合図だ。
「おい、時間がねえ! 改めを急げ!」
閉門の太鼓が鳴り響くなか、宗吉は息を乱しながら、公儀の隠密である榊から渡されていた通行手形を差し出した。プロの関所役人も疑う余地なく一発で通行を許可した。
「よし、通れ!」
関所の門をスレスレでくぐり抜けた宗吉は、そのすぐ先に隣接する「箱根宿」の入り口へと飛び込んだ。まさに今、宿場の防犯用木戸がガタガタと音を立てて閉まりかけている。
宗吉は文字通り、その閉まりきる木戸の隙間へと滑り込み、八坂屋の定宿の軒先で待機していた連次へと、汗と執念の染み込んだ紫のタスキを叩きつけた。
「連次! 間に合った……!」
「おう、しっかり受け取ったぜ、宗吉さん!」
連次はお調子者だが、誰よりも丁寧にピッチを正確に刻み続けられる職人気質の飛脚だった。夜の箱根下りという最も恐怖心の勝る大役を任され、その足はわずかに震えていた。宗吉は「手形も文箱と一緒に持ってけ!」と懐に手形をねじ込む。
タスキを受け取った連次は即座に踵を返し、三島宿側への猛烈な下り坂に向けて飛び出していった。それを見届け、宗吉はその場にどっと座り込んだ。だが、本当の地獄はここからだった。
「待てッ! 止まれ、八坂屋の飛脚!」
箱根宿の出口、街道が下り坂に差し掛かる直前で、突如として宿場役人たちの怒号が響き変えた。見れば、走り出したばかりの連次が、十手を持った役人たちに完全に取り囲まれている。
「お前たち、通行手形を持たずに出口の木戸を抜けようとしたな! 即座に搦め捕れ!」
「手形がない!? バカ言え、さっき関所を通った本物を、タスキと一緒にこいつの懐に叩き込んだはずだ!」
宗吉が叫ぶが、連次は青ざめた顔で自分の懐を何度も探り、首を振る。
「そ、宗吉さん、ないんだ……! 木戸を抜けるとき、誰かと肩がぶつかった拍子に、懐から抜き取られたみたいで……!」
その瞬間、宗吉の視界の端に、冷酷な薄笑いを浮かべてこちらを見下ろしている榊の姿が映った。
(あの野郎……! 関所は本物で通らせて油断させ、暮れ六つの混乱に乗じて、手下に手形を盗ませやがったんだ!)
手形がなければ完全に立ち往生。八坂屋の速度試験は強制終了、全員打ち首の絶体絶命。役人たちが刀を抜き、絶望が宿場を包んだ――その時だった。
「――おい、そこのお役人。探しているのは、これのことか?」
すぐ脇の旅籠の暗がりの影から、低く、しかし驚くほど通りが良い声が響いた。
そこには着古した羽織を無造作に羽織り、腰に立派な二本差しの刀を帯びた一人の野良着姿の御家人が立っていた。男の大きな手には、紛れもない「本物の通行手形」が握られていた。
「な、何奴だ貴様! なぜそれを!」
宿場役人が色めき立つ。御家人はふっと不敵な笑みを浮かべ、親指で自分の背後の地面を指差した。そこには、榊の手下である隠密の密偵が、顔を腫らし、気を失って転がっていた。
「宿の縁側で夕涼みをしていたらな、その泥棒猫が、必死に走るこの飛脚とぶつかった隙に懐から小器用に紙切れを抜き取るのが見えてな。少々、手荒く取り返させてもらった」
「貴様……余計な真似を……!」
計画を台無しにされた榊が、怒りのあまり懐の暗器に手をかけようとする。だが、謎の御家人はその榊の鋭い殺気を一瞬で見なし、鋭い眼光で榊を一瞥した。
「公儀の隠密ともあろう者が、こそ泥のような真似をするか。見苦しいぞ、榊」
「なっ……なぜ、私の名を……!?」
榊の顔から一瞬にして血の気が引いた。この男、ただの浪人風情ではない――その恐怖が、榊の動きを完全に金縛りにした。
御家人はにやりと笑うと、宿場の定番役人に向かって、手形をひらひらと投げ渡した。
「役人殿、手形はここにある。飛脚が盗難に遭っただけなのは、それがしがこの目で見た証拠がある。……これ以上、この骨のある若者たちの足を止める理由はあるまい?」
手形が本物であり、目撃者がお上の御家人となれば、宿場役人たちもこれ以上八坂屋を捕らえる大義名分を失う。
「け、検分はここまでだ! 木戸を開けろ! ……お前たち、今すぐここを立ち去れ!」
「感謝します!」
宗吉は手形をひったくると、恐怖で身をすくませていた連次の肩を強く叩いた。「連次! びびるな! 闇なんて怖くねえ、俺たちが江戸で仕込んできた『あの仕掛け』を忘れたわけじゃねえだろ!」
連次の目に、確かな闘志が宿った。「……おう、やってやるぜ、宗吉さん!」
解放された連次は、再び凄まじい勢いで駿河路への下り坂へと飛び出していった。閉まりかけていた出口の木戸が再び大きく開かれ、タスキは完全に闇に包まれた東海道を西へと滑走していく。
宗吉は、助けてくれた謎の御家人に向かって深く頭を下げた。「お侍さん、命を救われました。八坂屋の宗吉です。この御恩は一生――」
「気にするな。お前たちの大博打、面白く見せてもらっている。……さあ、行くが良い。こんなところで立ち止まる男ではあるまい」
男はそう言って、再び旅籠の闇の中へと静かに消え去っていった。
夜の箱根の下り坂は、一歩間違えれば崖下へ滑落する漆黒の地獄だ。だが、連次の走る速度は、一向に衰えなかった。連次の腰と額には、宗吉と千鶴が江戸で考証し、密かに仕込んでいた「秘密の仕掛け(夜間行軍灯)」が備わっていたからだ。
小さな竹筒の底にガラスのレンズをはめ込み、中には高純度の鯨油を燃やす特製の灯火。額の灯りが進行方向を照らし、腰の灯りが足元の凹凸を低い位置から照らすため、石畳の影が立体的に浮き上がり、段差の深さが正確に認識できる。
さらに連次の目には、千鶴が事前に摂取させていた八目鰻の栄養――高濃度ビタミンAの科学的配剤が効き、わずかな光を増幅して捉える夜の目と化していた。
「これなら、昼間と変わらねえ! 刻める、俺の足並みが完璧に刻めるぞ!」
恐怖心を科学で克服した職人飛脚・連次は、足音を消す厚底草鞋の衝撃吸収性をフルに活かし、漆黒の箱根山を驚異的な速さで駆け下りていった。
三島、沼津、原、吉原、蒲原、由比、興津、江尻――。
夜間としては前代未聞の驚異的なペースを維持し、八坂屋の若手飛脚たちは、松明と夜間灯の光を繋いで駿河の街道を風となって駆け抜けていった。




