第13話:【12th Lap】駿河路に響く勝鬨、あるいは黎明の光
そして――翌朝の午前四時五十分。
東の空がわずかに紫色に染まり始めたその瞬間、八坂屋の最終飛脚が、ついにこの速度試験の目的地、駿府城の東御門の前に到達した。だが、その門の直前で、最後の理不尽なトラブルが襲う。
「止まれッ! 開門時間前に城に近づくことは不法侵入とみなす! 直ちに引き返せ!」
城門を守る武士たちが、槍をまたいで立ちはだかった。あと数歩なのに、時間が早すぎたせいで失格にされるという理不尽。飛脚が槍の前に立ち往生した、その時だった。
「――朝っぱらから、何を騒々しくしておるのだ」
重々しい城門の奥から、低く、しかし驚くほど凛とした威厳に満ちた声が響いた。
門の奥から歩み出てきたのは、着古した作務衣をまとい、手には庭木の剪定に使う大きな鋏を持ち、指先を泥で汚した初老の男。早朝から城内の見事な庭園の手入れをしていたその男こそ、この駿府城の最高権力者にして、将軍の代理たる駿府城代――本多忠信その人であった。
「じ、城代様! これなるは不届きな民間飛脚で……」
「黙れ」
本多忠信の一喝で、門番の家来は完全に口を噤んだ。忠信は、泥だらけになりながら胸を激しく上下させている飛脚と、その腰にある紫のタスキ、戦い抜いた通行手形をじっくりと検分した。その厳格な眼光は、箱根で出会ったあの「謎の御家人」と、どこか酷似していた。
「手形は本物。……そして、日の出前に届いたということは、江戸を昨朝出て、わずか二十時間でここまで繋いだということか」
忠信の口元が、わずかに綻んだ。
「実に見事だ、飛脚たち。公儀の課した無理難題の仕事を、民間の執念と知恵で見事に達成してみせたな。手形の文言を狭い器でしか読めぬ門番の非礼、それがしが免じよう。……さあ、門を開け。八坂屋の着地を記録せよ!」
ゴギィィィン、と重々しい城門が完全に開け放たれた。
その瞬間、門の前で大提灯を掲げて震えながら待機していた八坂屋の古参番頭・八兵衛が、大粒の涙を流しながら飛脚へと飛びついた。
「やった……! やったなぁぁぁッ!! 間に合ったぞ!!」
午前五時。東の空から最初の一条の光が差し込むなか、町飛脚の歴史を塗り替える八坂屋の紫のタスキは、ついに駿府城への堂々の完全着地を果たしたのだ。
飛脚たちを夕刻まで休ませた後、駿府城の奥書院。
八坂屋を代表し、正装に着替えた番頭の八兵衛が、本多忠信城代の前に一人、深く平伏していた。宗吉は一歩下がった控の間から、その張り詰めた空気を見守る。
「八坂屋八兵衛。此度の走破、江戸へしかと報告を入れよう。正式な裁許は江戸へ戻ってからとなるが……まずは、夜通し泥にまみれて大仕事を果たしたお前たちの執念に、それがしからの心付けだ。受け取るが良い」
城代の側近が、一包みのささやかな、けれど上質な紙に包まれた一時金を八兵衛の前へ差し出した。それは、粋な「労いの心付け」であった。
「ありがたき幸せに存じます。この御恩、八坂屋一同、決して忘れません」
八兵衛は深く頭を下げ、その温かい心付けを受け取った。
数日後。
行きは命がけの地獄の道だった東海道を、今度は大きな達成感と誇りを胸に、堂々と引き返した宗吉たちは、ついにスタートの地である江戸・日本橋へと帰還した。
すっかり日が落ちた夜の八坂屋。
大戸が開いた瞬間、地鳴りのような歓声が八坂屋を揺らした。
「おかえりぃぃぃッ!!」
そこへ、幕府からの公式な使者が厳かに入ってきた。手渡されたのは、お上の公式な御朱印が捺された極上の書状――それは、今回の試験を完璧な速度で達成した八坂屋へ授けられる、「正式な公儀御用達の株」であった!
「うおぉぉぉッ!! 本当に、本当に御用達をもぎ取ったぞ!!」
広間には、美味い酒と大盛りの飯が所狭しと並べられ、全員が一斉に叫んだ。「「「乾杯ァァァッ!!」」」
小心者の連次が今や一番に胸を張って酒を煽り、源造親方が「だから言ったろ、俺の厚底は日本一だ!」とガハガハと笑っている。民間の知恵と絆で歴史を塗り替えた八坂屋の、最高の打ち上げだった。
千鶴は、その賑やかな喧騒を少し離れた土間から、いつもの穏やかな笑みを浮かべて見つめていた。その隣に、宗吉がそっと杯を持って腰を下ろす。
「千鶴。お前の蘭学の知識がなきゃ、夜の箱根は越えられなかった。ありがとな」
素直に頭を下げてきた宗吉に、千鶴は一瞬きょとんとした。だが、すぐにふいっと顔を背け、不自然に口を尖らせる。
「……べ、別に、あなたのためにやったわけじゃないわ。私はただ、自分の提唱した解剖学と栄養学の理論が、どこまで実証できるかという、純粋な医学的好奇心に従っただけよ」
「はは、相変わらず可愛くねえ理屈だな」
「なっ、可愛くなくて悪かったわね! ……でも、その」
千鶴はそっと視線を宗吉の手元へと戻すと、衣服の袖をぎゅっと握りしめ、顔をほんのり赤く染めながら蚊の鳴くような声で呟いた。
「……あなたが、怪我もなく、無事に帰ってきてくれたことだけは……その、少しだけ、安心したわ。少しだけ、ね」
宗吉が驚いて見つめると、千鶴は「な、何よ! さあ、早くみんなのところへ戻りなさい!」と、真っ赤になった顔を隠すように宗吉の背中を座敷の方へ押し返した。宗吉は思わず苦笑しながらも、その温かいぬくもりに、胸の奥がじんわりと満たされるのを感じていた。
――だが、宗吉はまだ知らなかった。
駿府城代・本多忠信が、拝謁の終わりに放った、最後の静かな一言の真意を。
『此度の試験、江戸から駿府までは証明された。……次は、そのさらに先、大坂、そして西国への路だ。いずれまた、お前たちのその足が必要になるやもしれん』
箱根の御家人、そして駿府城代。幕府の最高権力層が、八坂屋の爆速の裏に見据えている「次なる大博打」の影。
広間を包む割れんばかりのみんなの笑い声と、溢れるほどの喜びの熱気の中に、八坂屋の看板は、夜の江戸の街へ向けて、どこまでも明るく、誇らしげに輝き続けているのだった。
(第一部:飛脚転生箱根激走編・完/第二部へ続く)
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
「面白い!」「続きが読みたい!」と思っていただけたら、ぜひページ下部の【ブックマーク登録】と【★★★★★評価】をよろしくお願いします!
皆様の応援が何よりの原動力になります。次回もどうぞお楽しみに!




