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飛脚転生 〜箱根駅伝の5区(山登り)の神、江戸の街道を現代走法で無双する〜  作者: 霧島 陣九郎
第二章 京の陰謀編

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第14話:箱根の恋心と、江戸の嬉しい悲鳴

駿府の速度試験から数日後。日本橋にある八坂屋の看板は、江戸の町で眩いばかりの存在感を放っていた。

 駿府までを二十時間で駆け抜けたという伝説は瞬く間に広まり、大名家や豪商からの大口の荷運び依頼や、諸国から我も我もと飛脚志望の若者が詰めかけている。

 だが、宗吉の心には一つ、果たさねばならない約束があった。

 彼は通常の荷運びの仕事を引き受け、再び箱根の山道を登っていた。目指すは、あの命の恩人・楓が待つ『高嶋屋』だ。

 山頂に差し掛かると、店先で薪を割る楓の姿があった。宗吉の姿を認めた瞬間、彼女の動きがピタリと止まる。驚きに大きく見開かれた瞳が、またたく間にじわりと潤んでいった。

「宗吉さん……! 本当に、来てくださったのですね」

 声を張り上げることもなく、ただ、こぼれ落ちそうな喜びを噛み締めるように小さく呟く。

「約束だからな。あの時は、楓の薬草と飯がなきゃ駿府には届かなかった。これは、その時の代金。……それと、こっちは俺からの個人的な礼だ」

 宗吉が差し出したのは、丁重に包んだ銀包みと、もう一つ――日本橋の有名店で仕入れてきた、小ぶりな紅箱と上質な鼈甲べっこうの髪留めだった。

 洗練された江戸の流行り物。山仕事の邪魔にならないよう、あえて小ぶりで上品な細工のものを選んでいた。

「これ、私に……?」

 楓はそっと、壊れ物を受け取るようにそれらを両手で包み込んだ。

 手触りの良い鼈甲の温もりと、ほんのりと漂う江戸の香りが、宗吉が「江戸の厳しい表舞台で、必死に汗を流して戦っている飛脚」であることを否応なしに教えてくれる。

(――どうして、こんなに優しくしてくださるのだろう)

 楓は深く俯き、髪留めをそっと胸元に抱きしめた。言葉には出せない想いが、胸の奥で狂おしいほどに溢れ出していく。

 あの速度試験の時、命を削るような過酷な走りの渦中にありながら、宗吉は仲間の飛脚たちの体を誰よりも労わり、飛脚の矜持を守るために必死に知恵を絞っていた。お上の理不尽に町飛脚としての意地だけで毅然と立ち向かう強さがある一方で、峠のしがない茶屋の娘である自分にも、一人の人間として、これ以上ないほど誠実に、温かい感謝を注いでくれる。

 この人が持つ、泥臭いまでの誠実さと、真っ直ぐな生き方に――楓は、焦がれるような恋をしていた。

 しかし、自分は箱根の山道で生きる田舎娘だ。江戸の町飛脚として、日々命懸けの大きな仕事に向かっていく宗吉の足を、自分のわがままで止めるわけにはいかない。無事に走ってほしいと願う切なさと、それ以上に、抑えきれない愛おしさが、胸の内でぐるぐると渦巻いて涙になりそうだった。

 楓はぐっと唇を噛み締め、溢れそうになる感情を必死に心の奥底へと押し込めた。

 そして、ゆっくりと顔を上げると、まだここにいて欲しい心をすべて瞳の奥の熱に込めて、宗吉をじっと見つめた。

 ほんのりと赤く染まった頬と、切ないほどに揺れるその眼差しだけで、彼女の内に募る恋慕は、宗吉の胸を揺さぶるに十分だった。

「……大切に、いたします。毎日、肌身離さず、お守りにいたしますから。……お気をつけて、江戸へお帰りくださいね」

 ただそれだけを、祈るような微笑みと共に手向けた。

 どこまでも控えめで、けれど一歩も退かぬほど一途なその瞳に見送られ、宗吉は後ろ髪を引かれるような、甘酸っぱい胸の痛みを抱えながら、箱根の山道を下っていくのだった。

 江戸・日本橋の八坂屋に戻ると、そこには地獄のような大混雑が待っていた。

「お頭ぁ! また大名家から飛脚の催促です! どうしましょう!」

「新人志望の若者が五十人、店先で列を作ってます! 全員面接なんてしてたら日が暮れますよ!」

 番頭の八兵衛と、飛脚の連次たちが血の気のない顔で駆け寄ってくる。

「おいおい、そんなにてんやわんやなのか?」

「当たり前ですよ!『八坂屋に行けば稼げる』っていう噂が町中に広まっちまって! このままじゃ飛脚の教育が追いつきません!」

 店先を覗けば、目を輝かせた若者たちが所狭しと並び、奥では膨大な依頼書が山のように積み上がっている。まさに嬉しい悲鳴というやつだ。

 宗吉が苦笑しながら店の中へ入ると、そこには不機嫌そうに薬研やげんを叩きつけている千鶴の姿があった。

「あら、ご帰還? 箱根の山はお気に召したかしら? 素敵な看板娘さんに、ずいぶんと洒落た髪留めをお贈りになったみたいね」

 千鶴は明らかに機嫌が悪い。どこから聞きつけたのか、鋭い視線が宗吉に突き刺さる。

「いや、ただの命の恩人への礼だよ。……それより千鶴、この大繁盛だ。医学的な管理が必要な飛脚の数も増える。頼りにしてるぞ」

「……べ、別に、あなたのためにやってるわけじゃないわ。私はただ、自分の提唱した栄養学の理論が、この江戸でどれだけ通用するか、純粋な好奇心に従ってるだけよ。勘違いしないで!」

 千鶴はプイと顔を背けるが、その耳は真っ赤だ。宗吉を巡る、素直になれない理系美女と、内に秘めた熱い恋心を燃やす看板娘。江戸と箱根、二人のヒロインの間で、宗吉の心はいつの間にか複雑な方程式を解くような難局に立たされていた。


 その夜、店がようやく静まり返った頃。

 奥書院で宗吉と八兵衛が今後の飛脚網の拡大について話し合っていると、しめやかな足音と共に、一人の男が暖簾をくぐった。

 着古した羽織に、腰には立派な二本差し。あの箱根で、榊の陰謀を粉砕してくれた謎の御家人だった。

「……お前たちの店はだいぶ騒がしくなったようだな。だが、活気があるのは良いことだ」

 御家人は低い声で告げると、八兵衛に合図して大戸を隙間なく閉めさせた。

 宗吉と八兵衛が、箱根での恩人が突然夜更けに訪ねてきたことに驚いて身を固めるなか、水野はふっと不敵な笑みを浮かべ、無造作に着古した羽織を脱ぎ捨てた。

 その下に隠されていたのは、民間人が容易に拝むことすら許されない、格調高き衣服。男は懐から、公儀の厳かな印が据えられた一塊の鑑札かんさつを畳の上へと静かに置いた。驚く二人を見据え、男は自ら堂々と、その重々しい名を口にする。

「――お主たちには、それがしから真実を語らねばなるまい。それがしの名は水野伊豆守景時みずのいずのかみかげとき。公儀より諸大名の監視、および最高監察を命じられた、幕府大目付おおめつけである」

「み、水野景時様……大目付様……っ!?」

 そのあまりにも重い名と肩書きを自ら告げられた瞬間、それまで隣で胡坐をかいていた古参番頭の八兵衛が、まるで雷に打たれたように飛び起き、そのまま畳に額を擦りつけるようにして平伏した。ガタガタと震える八兵衛の横で、宗吉もまた、目の前の男が「お上の最高権力者の一人」であることを理解し、背筋に鋭い緊張が走るのを感じていた。

「表を上げよ。お主たちの走りがなければ、箱根で榊の暴挙を止める大義名分もなかった。まずはそれがし直々に、此度の見事な走破の礼を言いたくてな」

 水野は鋭い眼光で宗吉を見据え、古びた地図を広げた。

「だが、ここからが本番だ。……宗吉。現在、西国にて幕府を揺るがしかねぬ不穏な動きがある。京都や西国の大名周辺で、何やら不気味な気配が燻っておるのだ。この陰謀の芽を早期に摘み、天下の平穏を守るためには、江戸と西国をかつてない速度で結ぶ『迅速な情報網』の構築が絶対に不可欠となる」

 水野は、じっと宗吉の目を見つめた。

「むろん、公儀にもお抱えの飛脚はおる。……だが、奴らは前例と格式に縛られ、形骸化した公儀の組織では、これ以上の『技術革新』など不可能なのだ。過去に囚われない、最新の学問と民間の知恵がいる。天下の険を物ともしないお主たちの研究による厚底草鞋、および奇策とも言える夜間走行……それら常識破りの知恵と走力を持つ八坂屋の力が、どうしても必要なのだ」

 そこまで一気に語ると、水野は声を一段と低くし、凄まじい威圧感で二人に釘を刺した。

「ただし、このことは国家の安寧のため、決して公にしてはならん。お主たちが動いていることが敵に漏れれば、天下の民は動揺し、戦の火種が一気に燃え広がる。……あくまで一介の町飛脚として西国路を開拓せよ。これが、それがしからの極秘の特命だ」

 水野の重々しい言葉に、宗吉は生唾を飲み込んだ。

(水野伊豆守景時……この世界線の幕府の巨頭が、俺たちの『技術』にすべてを賭けて目をつけた。公にできない、命懸けの極秘任務か。第二章の、本当の戦いが始まる……)

 水野が去り、深夜の店の庭先に、影のような気配が通り過ぎた。

 猫のようなしなやかな動きで、屋根へと飛び移る影。そこには一瞬だけ月明かりに照らされた、見慣れぬ美しき女の横顔があった。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!

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