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飛脚転生 〜箱根駅伝の5区(山登り)の神、江戸の街道を現代走法で無双する〜  作者: 霧島 陣九郎
第二章 京の陰謀編

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第15話:俊足の美少女と、引き抜きの罠

 水野伊豆守景時から西国路開拓の極秘任務を言い渡された、その翌朝。

 日本橋の八坂屋は、昨日にも増して若い就職希望者の熱気に包まれていた。東海道を二十時間で駆け抜けたという『厚底草鞋』の技術と、合理的な『シフト制(継ぎ飛脚)』の噂は、食い詰めた江戸の若者たちにとって一攫千金の灯火に見えていた。

「次の方、中へどうぞー!」

 お店の運営を取り仕切る古参番頭の八兵衛が声を張り上げると、店先の暖簾をくぐって、一人の人物がしなやかな足取りで入ってきた。

 面接の机につく八兵衛、その横で現場の仕切り役として同席していた宗吉、そして奥で薬を調合していた千鶴の視線が、同時に釘付けになった。

「……飛脚の奉公を志望しに参りました。おはつと申します」

 頭を下げたのは、見事な黒髪を後ろで一つに結んだ、小柄な少女だった。

 日に焼けていない白い肌に、涼しげで切れ上がった瞳。男装に近い小袖を纏っているが、その佇まいは隠しきれないほどに凛として美しい。

「おいおい、娘さん。うちは泥にまみれて東海道を激走する町飛脚だ。申し訳ねえが、こんな華奢な女子おなごの奉公する場所じゃねえよ。他を当たってくれ」

 八兵衛は困惑しながらも、即座に採用を断ろうと手を振った。

 お初は表情一つ変えず、「……左様でございますか。無礼をいたしました」と静かに一礼し、あっさりと店を去ろうと暖簾に手をかけた。

 ――その、瞬間だった。

「泥棒だー! スリだ! 誰か捕まえてくれーっ!」

 表通りから、悲痛な叫び声が響いた。見れば、包みを抱えた小汚い男が、人ごみを押し分けて猛スピードで逃走していく。

 店先にいたお初は、振り返りもせず、ただすっと姿勢を低く落とした。

(――ッ!? あの踏み込み……!)

 宗吉の目が跳ね上がった。

 お初は小袖の裾をわずかに端折り、地面を爆発的な力で蹴り飛ばした。

 まさに風。人ごみの隙間をヌルリと滑るような無駄のない足運び、軸のまったくぶれない体幹のブレなさは、圧倒的な俊足だった。

 瞬く間にスリの背後へ肉薄したお初は、相手の重心を最小限の力で崩し、奪われた包みを鮮やかに奪還してみせたのだ。

「す、すげえ……」

 集まった野次馬から歓声が上がる中、宗吉は八兵衛の肩を激しく掴んだ。

「番頭さん! あの娘、只者じゃありません! あの速度と脚の着地……今の八坂屋に喉から手が出るほど欲しい本物の俊足です! 逃しちゃダメだ!」

「お、おう……! おい、お初さん! 待ちなさい!」

 八兵衛は大声で呼び止め、戸惑うお初を強引に店の中へと連れ戻した。

「宗吉がどうしてもと言ってな……帳面付けや荷の仕分けを主にやってもらうが、忙しい時は走りも手伝ってもらう。雇わせてくれ!」

「ちょっと、八兵衛さん! 宗吉も!」

 すかさず奥から千鶴が鋭い声を上げて詰め寄ってきた。千鶴はお初の前に歩み寄ると、腕を組んでその全身をジロジロと検分するように見つめた。

「身軽なのは認めるわ。でも、オランダの医学書オランダほんにある解剖学や養生の道から言わせてもらえば……」

 千鶴の鋭い視線が、端折られたお初の小袖の隙間――しなやかに引き締まった足首とふくらはぎの筋肉へ注がれた。

 一見すれば華奢な町娘。だが、その皮膚の下に躍動するすじのつき方は、常人が一生かかっても到達できない、異質なまでの完成度を誇っていた。

(……なんなの、この脚の筋肉は。ただ走るのが速いだけの娘の付き方じゃない。まるで鹿のような――)

 千鶴の背筋にひやりと冷や汗が流れた。目の前の少女に対する、説明のつかない不気味な警戒感が跳ね上がる。

 ……だが同時に、蘭学医の娘として、この異質な素材ランナーに対する興味と、八坂屋の戦力になるという事実を認めざるを得なかった。

「……はあ。仕方のない人たちね。いいわ、採用に同意するわ。……ただしお初さん、あなたのその身体は、私が徹底的に調べさせてもらうからね」

 千鶴はヤキモチと警戒心を隠すようにフンと横を向いた。

「……お意のままに」

 お初は静かに深々と一礼した。その涼しげな瞳の奥にどのような感情が潜んでいるのか、宗吉たちにはまだ知る由もなかった。

 しかし、八坂屋が抱える問題は、身内の謎の少女だけではなかった。

 お初が無事に雇われて一息ついた頃、店先に冷ややかで横柄な影が現れた。

「ごめんください八坂屋さん。ずいぶんと賑やかなことで」

 入ってきたのは、上質な絹の着物を纏い、細い目をさらに細めて不気味に微笑む狐顔の男と、その配下と思しき強面の飛脚たちだった。男の胸元には、江戸でも一、二を争う大手飛脚問屋『嶋屋しまや』の紋が入っている。

「これは嶋屋の番頭さん。うちのような弱小問屋に、一体何の御用で?」

 八兵衛が険しい表情で前に出ると、嶋屋の番頭・甚兵衛じんべえは懐からズシリと重い銀包みを取り出し、畳の上に静かに滑らせた。

「八兵衛さん、うちの大旦那(勘兵衛)からの言伝ですよ。八坂屋さんが始めた『二十時間で駿府に届く草鞋』と『途中で人間を入れ替える走法』、あの技術を買い取らせていただきたい。この銀でどうです? それに、そこの連次や新吉といった腕の立つ飛脚も、うちが今の倍の給金で引き抜いてさしあげる。大手であるうちの傘下に入れば、お上の株仲間(既得権益)の圧力に怯えることもなくなりますよ」

 揉み手をしながらも、その瞳には「弱小問屋など金と力でいつでも潰せる」という冷酷な侮蔑が宿っていた。配下の飛脚たちが大きな身体で若い新人たちを威圧する。

「倍の給金……!?」

 一瞬、動揺する若い新人飛脚たち。

 だが、八坂屋の暖簾を守る番頭・八兵衛は、鼻で冷笑すると、銀包みを丁寧に差し戻した。

「嶋屋の番頭さんよ、あいにくだがうちの技術と飛脚は売り物じゃねえ。大旦那にそう伝えて、さっさと帰んな!」

「……ほう。正気ですか、八兵衛さん? 江戸の大手であるうちに盾突いて、お前さんたちのような泥臭い町飛脚が無事でいられるとお思いで?」

 甚兵衛の目がすっと細くなり、冷たい脅迫の空気が店内に満ちる。

 八兵衛が胸を張って突っぱねると、その背後から宗吉が一歩前に踏み出し、動揺していた若い新人飛脚たちの顔を一人一人見据えた。

「――嶋屋の番頭さん。給金を倍に積まれてアンタのところへ行っても、ただ足が壊れるまで酷使されて終わりだ。自分の身体を大事にされず、使い捨てにされる走りと、千鶴さんの養生や新吉の工夫で創る『明日の物流』……どちらが未来を稼げるか、うちの奴らは全員分かってるさ」

「宗吉……!」

「番頭さん……!」

 連次や新吉がニヤリと笑い、新人たちもハッと目を覚ましたように拳を握り直した。八坂屋の結束は微塵も揺らがなかった。

「……そうですか。後悔なさらないことですな」

 甚兵衛は表情を変えずに銀包みを拾い上げると、冷ややかな一礼を残して店を去っていった。

 嶋屋の番頭が去り、不穏な空気が残る中、新しく雇われたお初が静かに口を開いた。

「……宗吉殿、八兵衛殿。嶋屋のような大手は、お上の奉公人や京の大きな大物と繋がっていることが往々にございます。力尽くで八坂屋を潰しに来るかもしれません」

 お初の何気ない、けれど異様に鋭い一言に、宗吉の目が光る。

(ただの町娘が、京の大物の動きまで見通しているような言い方……。)

「上等だ。嶋屋がその気なら、お上の圧力で潰される前に、圧倒的な『速度の差』で江戸の物流市場を完全に支配してやる」

 宗吉は不敵に笑い、西国へと続く東海道の地図を睨み据えた。

 圧倒的な俊足と謎を秘めた新しい仲間・お初の加入、そして江戸の大手との全面戦争の火蓋が切って落とされた。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!

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