第16話:知の閃き、胸のざわめき、恋の火種
大手飛脚問屋『嶋屋』の番頭・甚兵衛が持ち込んできた、ずっしりと重い銀包み――現代にしておよそ一億円相当にあたる、銀五十貫目という途方のもない買収金。
それを八兵衛さんが「うちの暖簾と飛脚は売り物じゃねえ!」と一閃して叩き返してから数日。
引き下がると思われた嶋屋は、八坂屋を公然と葬り去るための恐ろしい勝負を打ってきた。
「平坦な東海道など生ぬるい! 飛脚の真の足腰を示すなら、木曽の難所が連なる『中山道』にて勝負しようではないか!」
面目を潰された嶋屋は、江戸の豪商たちや飛脚の株仲間に手を回し、自らの資金力を笠に着て『中山道・早走り競走』という大一番を仕掛けてきたのだ。
噂を聞きつけた江戸の豪商たちも面白がり、この勝負に破格の「賞金」を出すことを決定。江戸中を巻き込む大勝負へと発展してしまった。
この勝負に掲げられた条件は、八坂屋にとってあまりにも大きい賭けだった。
【八坂屋が勝った場合】
豪商たちが差し出した巨額の「賞金」を獲得する。
飛脚の株仲間から正式に認められ、八坂屋の西国(中山道・京都方面)への営業権が公に解禁される。嶋屋からの不当な妨害も二度と受けない。
【八坂屋が負けた場合】
八坂屋は即座に暖簾を下ろして廃業する。
厚底草鞋の製法や継ぎ飛脚の仕組みなど、八坂屋のイノベーション技術をすべて無償で嶋屋へ明け渡さねばならない。
逃げれば「山を恐れた偽物」と嘲笑されて客を奪われ、廃業へ追い込まれる。八坂屋にとって、店と技術と西国への未来をかけた、絶対に負けられない全面戦争だった。
「中山道の一区は、日本橋から最初の宿場である板橋宿までの短距離勝負だ。伊蔵さん、一回の呼吸と足の刻みを一定に保ってくれ。嶋屋の『鬼吉』の力任せな走りに惑わされず、己の速さを刻めば、板橋に着く前に必ず相手の息が切れる」
「おうよ、宗吉! 板橋宿にいるあいつ(飯盛女)の顔を思い浮かべりゃ、俺の足に羽が生えるぜ!」
俺――元・箱根駅伝5区のランナーであり、八坂屋の現場監督を務める宗吉が伊蔵さんと来週に迫る決戦の作戦を練っていた、まさにその時だった。
「――ここね! ここが噂の八坂屋ね! 宗吉さんっ!」
突如、土間を揺るがすような叫び声とともに、一人の娘が突風のごとく店内に飛び込んできた。
見事な黒髪を二つ結びにして跳ねさせ、職人の前掛けを身に纏った可憐な娘。年齢は俺や千鶴と同じくらいだろう。
彼女は店内にいた俺を見つけるや否や、目を輝かせて一直線に猛ダッシュしてきた。
「わあ、あなたが噂の宗吉さんね! 衝撃を和らげる草鞋に、代わり合って走る継ぎ飛脚……凄すぎるわ! 天才! 私、平賀蘭!お蘭と呼んで。 私と一緒に新しい仕掛けを作りましょうよ!」
「うおっ!?」
お蘭と名乗ったお転婆な娘は、人目もはばからず俺の右腕にギューッと抱きついてきた。
やわらかい感触が腕に伝わり、俺の頭は一瞬で真っ白になる。
「ちょっと! 何やってんのよ、お蘭!」
店奥で養生膏を調合していた千鶴が、般若も恐れおののく凄まじい形相で飛んできた。
「何って、じゃないわよ! 気安く宗吉の腕に触らないで! 離れなさい、このおてんば娘!」
千鶴は顔を真っ赤にして、お蘭の襟首を掴んで強引に俺から引きはがす。
平賀お蘭――あのエレキテル(摩擦起電機)の復元や数々の革新的な発明で江戸中を驚かせた奇才・平賀源内の娘にして、自らも天才的な発明家と噂される娘だ。
「やれやれ。相変わらずお前たちは賑やかだな」
呆れたような、しかしどこか優雅な声とともに店内に足を踏み入れたもう一人の青年がいた。
着流しを上品に着こなす男前。
杉田玄一――オランダの解剖書を翻訳して『解体新書』を著し、日本の近代医学を切り拓いた巨頭・杉田玄白の息子であり、若くして日本トップクラスの医学的知見を持つ天才学者だった。
玄一は手に持った扇子をパチンと閉じると、真っ赤になって肩で息をする千鶴を見て、ニヤリと不敵に口角を上げた。
「相変わらずおこりん坊だな、千鶴。僕の未来のお嫁さんが、他の男のことでそこまで感情的になってちゃ、僕の立場がないじゃないか」
「っ〜〜〜〜!? げ、玄一! あんた、なんで余計なこと言うのよたわけ!」
……え? 未来のお嫁さん……?
俺は思わず耳を疑い、固まってしまった。
「玄一……それ、どういう意味だ?」
「おや、ご存知なかったのかな宗吉殿?」
玄一はニヤニヤとした笑みを浮かべ、俺の顔を覗き込んできた。
「僕の父と千鶴の父上は古くからの親友でね。『二人が大きくなったら夫婦にしよう』と親同士で約束している許嫁なのさ」
「ち、違うわよ宗吉! 親が勝手に言ってるだけで、私は承諾なんてしてないわよ! 変な勘違いしないでよね!」
千鶴は手をブンブンと振って必死に弁明する。
だが、玄一の圧倒的な知性と、千鶴との長年の幼馴染という深い空気感――。
胸の奥で、ドロリとした不快なモヤモヤ(……嫉妬だ)が勢いよく渦を巻くのを俺は抑えきれなかった。
(……千鶴の許嫁。確かに、蘭学医の娘である千鶴には、玄一みたいな男が一番お似合いなのかもしれない……)
「まあまあ、二人とも落ち着きなよ!」
雰囲気を察したお蘭が、あっけらかんと笑いながら割り込んできた。
「そんなことより宗吉さん! 嶋屋との勝負で夜走りもあるんでしょ? 私、父様の遺した仕掛けを使って、夜の街道を明るく照らす照らし行燈の試し物を作ってきたの!」
「僕も手ぶらで来たわけじゃない」と、玄一も紙包みを出す。「千鶴が考えた養生膏に、筋肉の疲れを和らげる梅の酸をあわせる改良案を持ってきた。来週の勝負までにしっかり仕上げよう」
お転婆なお蘭の工学的な閃きと、玄一の超一流の解剖医学。
二人の幼馴染が持ち込んだ知識は、八坂屋のチート的技術をさらに上の次元へと押し上げる完璧なものだった。
「すごい……! これがあれば、夜の山道も力蓄えも万全だ!」
俺が感嘆すると、玄一は満足そうに頷き、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「千鶴が命を懸けて支えている男だ。どれほどの人物か確かめにきたが……なるほど、面白い男だ。千鶴を任せるに足るか、じっくり見定めさせてもらうよ」
お蘭と玄一は、「来週の勝負、絶対に勝ちなさいよ!」と言いに残し、奥の作業場の方へと去っていった。
二人が去った後の八坂屋に、少しだけ気気まずい沈黙(胸のざわめき)が流れる。
千鶴の耳の先は、熟したトウガラシのように真っ赤だった。
「……宗吉」
千鶴はゆっくりと振り向くと、伏し目がちに俺の着物の袖を、キュッと小さく指先で掴んできた。
「……玄一のこと、気にしてる?」
「……いや。すごく頭が良くて、千鶴にお似合いの許嫁だなと思ってさ」
思わず嫌味っぽい声が出てしまい、俺は自分で後悔した。
だが、千鶴はパッと顔を上げると、大きな瞳に涙を少しだけ浮かべて俺を睨みつけてきた。
「大うつけ……! 私は、玄一のことなんて幼馴染としか思ってないわよ! 親が勝手に言ってるだけだって言ったでしょ!?」
「千鶴……」
「私の……私の大切な相棒は、あんただけなんだからね! 変なこと言ったら、特製の薬飲ませるわよ!」
ぷりぷりとおこりながらも、千鶴の袖を掴む手は決して離されなかった。
そのツンデレ全開の叫びと確かな温もりに、俺の胸のモヤモヤ(恋の火種)が一気に温かいものへと変わっていく。
「――がははは! なんだなんだ、甘っちょろい空気出してんじゃねえぞ宗吉ぃ!」
甘い雰囲気をぶち破るように、店の表から豪快な大笑いとともに、伊蔵さんが一人の男を連れて飛び込んできた。
着古した羽織に、帯には刃渡りの長い刀。着流しの胸元を豪快に肌蹴させ、眼光鋭く不敵な笑みを浮かべた男。
あの勝海舟の父にして、江戸の裏社会でも恐れられる破天荒な旗本――勝小吉だった。
「おい宗吉! 伊蔵の奴から話は聞いたぞ! 嶋屋の奴ら、平地の東海道を避けて険しい中山道での早走り勝負を挑んできたそうじゃねえか!」
「小吉の旦那!」
「へっ、それだけじゃねえぞ。耳寄りな情報だ」
勝小吉はニヤリと口の端を上げると、声を潜めて言い放った。
「嶋屋の番頭の甚兵衛の野郎……中山道の手配師だけじゃなく、信州の山奥に潜む『真田の忍び』の残党どもと裏で手を結んで、お前たちの足を力づくでへし折ろうと企んでやがるぞ」
「なに……!? 真田の忍び……!?」
(真田の忍び……! 嶋屋の背後にいる西国の影か!?)
「おうよ。奴らは影から刃を刺してくる汚ねぇ連中だ。だがビビるこたぁねぇ! 来週の本番までに、俺も裏で手を回して何とか手配師どもを締め上げてやる。お前らは、江戸っ子の真の走りってやつを中山道で見せつけてやれ!」
勝小吉の豪快な宣言に、八坂屋の空気が一気に一変する。
愛と友情、江戸の豪商たちの懸賞金と西国への営業権、そして中山道に潜む真田の忍びの不穏な影――。
八坂屋のタスキは、来週、いよいよ険しき中山道の街道へと解き放たれる!
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