第17話:板橋の風、散る鬼と 咲く意地
日本橋の袂は、早朝から押し寄せた見物人と江戸の豪商たちで地鳴りのような熱気に包まれていた。
本日開幕するは、八坂屋と嶋屋のプライドと存亡をかけた『中山道・早走り競走』。
平坦な東海道をあえて避け、木曽の難所が連なる過酷な中山道(日本橋〜京都三条大橋)を舞台としたこの大一番には、江戸中を揺るがす破格の条件と賭け金が掲げられていた。
【中山道・早走り競走の取り決め】
八坂屋が勝った場合:
江戸の豪商たちが差し出した巨額の懸賞金を獲得。さらに飛脚の株仲間から正式に認められ、八坂屋の西国(京都方面)への営業権が解禁される。嶋屋からの不当な妨害も一切無効となる。
八坂屋が負けた場合:
八坂屋は即座に暖簾を下ろして廃業。衝撃を和らげる『厚底草鞋』の製法や、走者を交代させて繋ぐ『継ぎ飛脚』の仕組みなど、すべてのイノベーション技術を無償で嶋屋へ明け渡さねばならない。
「八坂屋と嶋屋の命をかけた勝負だぞ!」
「一億円相当の買収を蹴って、中山道で全財産と暖簾を賭けて戦うたぁ、八坂屋も粋じゃねえか!」
熱狂する群衆の視線が集まるスタート地点には、両陣営の1区走者が並んでいた。
中山道の最初の区間は、日本橋から第一の宿場・板橋宿までの約十キロ超を駆け抜ける短距離勝負。
嶋屋の1区は、「韋駄天の黒鬼」と恐れられる巨漢・鬼吉。丸太のような太ももと圧倒的な筋力を誇り、ひと跨ぎで大きな距離を稼ぐ大股走法の怪物だ。
対する八坂屋の1区は、二十五歳にして八坂屋の最古参であり、若い仲間たちを背中で引っ張る兄貴分――ロケットスターターの伊蔵。品川宿の遊女を本気で身請けする夢を抱く熱い男だ。
「伊蔵さん、このたすきを結びなさい」
出走直前、千鶴が愛おしそうに差し出したのは、澄み渡る江戸の空のような浅葱色のたすきだった。
「これはね、箱根峠の楓ちゃんが心を込めて手縫いで作ってくれたものなの。中には道中の無事を祈るお守りも縫い込んであるわ。……楓ちゃんの想いも一緒に、無事に帰ってきてね」
「おうよ、千鶴お嬢さん! 楓ちゃんの心のこもったたすき、絶対に汚さねぇで繋いでみせるぜ!」
伊蔵は胸を張り、浅葱色のたすきをしっかりと肩から斜めに掛けた。
宗吉も伊蔵の肩を強く叩く。
「伊蔵さん、覚えてるな? 鬼吉の大股に惑わされず、ひと呼吸と足の刻みを一定に保つんだ。心臓の動悸を抑え、体内の力を切らさなければ絶対に勝てる」
「勝ちを祈っているよ、伊蔵殿!」
「伊蔵さん、一等賞で帰ってきてねーっ!」
日本橋のスタート地点で、宗吉、千鶴、お蘭、草鞋職人の源造、そして玄一が熱い声援を送る。
「双方、構えい――ッ! 打てぇい!」
合図の太鼓がドスンと打ち鳴らされた瞬間、地響きとともに鬼吉が弾け飛んだ!
「ガハハハハ! 邪魔だどけぇッ!」
圧倒的な爆発力と長い踏み込み。鬼吉は一瞬で伊蔵を数馬身突き放し、沿道の見物人から「おおっ!」と凄まじい歓声が上がる。
「見たか八坂屋! あれが我が嶋屋が誇る、江戸一の脚力よ!」
高台で見物する嶋屋の番頭・甚兵衛が、細い目をさらに細めて高笑いをあげる。
だが、追う伊蔵の走りは、驚くほど冷静だった。
鬼吉の力任せなダッシュに惑わされることなく、小刻みな足取りで一定の拍子を刻み続ける。
(よし、伊蔵さん完璧だ……! 鬼吉の走りは典型的な無酸素運動。あの巨体であれだけの力任せな大股走法を続ければ、数キロで筋肉に疲労物質が溜まり、急激な低血糖を起こして自滅する!)
宗吉の読み通り、勝負は中山道を北上し、本郷から巣鴨へ差し掛かったところで劇的に動いた。
「ハッ……ハッ……な、なんだ……脚が……重い……!?」
前方を走っていた鬼吉の速度が、目に見えて落ち始めたのだ。
力任せに地面を蹴り続けた足腰は限界を迎え、呼吸は激しく乱れ、汗が滝のように噴き出している。
そこへ、後方から足音もなく滑るように接近してきたのが伊蔵だった。
「――なんだい鬼吉さん、もう息切れかい?」
「なっ……何ィ!?」
驚愕して振り向く鬼吉の横を、伊蔵は涼しい顔で並びかける。
伊蔵は走りながら、千鶴とお蘭、そして玄一が作ってくれた「梅の酸と甘味を合わせた特製養生飴」をひょいと口に含んだ。高濃度の甘みと酸が、瞬時に伊蔵の全身に力を充填する。
「根性だけで走る時代は終わったんだよ! 俺たちには宗吉の教えてくれた走り方と、仲間の想いが詰まったたすきがあるんだ!」
胸に揺れる鮮やかな浅葱色のたすき。楓が縫い込んでくれたお守りの柔らかな感触と、日本橋で見送ってくれた仲間たちの顔が脳裏に浮かび、伊蔵の脚にさらなる力が爆発する。
「くっ……待て……待てぇぇッ!」
腕を振って追いすがろうとする鬼吉だったが、力尽きた巨体はもはや言うことを聞かない。ド派手に前のめりに転倒し、街道の泥の中に崩れ落ちた。
伊蔵は勢いを殺すどころかさらに速度を上げ、板橋宿の中継所へと一番乗りで飛び込んでいった!
「新吉、頼んだぞッ! 八坂屋の走りを、見せてやってくれ!」
「おうよ伊蔵さん! 任せときなッ!」
板橋宿で待っていた2区走者の新吉へ、汗と情熱の染み込んだ浅葱色のたすきが見事に渡される。新吉は怒濤の勢いで熊谷宿を目指して駆け出していった!
――それから数刻後。
江戸から遠く離れた信州の山中、冷涼な風が吹き抜ける第6区の中継所(軽井沢宿手前)。
八坂屋の新人飛脚としてあらかじめ現地に配置され、静かにタスキの到着を待っていたのは可憐な娘――お初の姿があった。
人目の切れた深い木立の影で、お初はひざまずく黒装束の男――真田の忍びの連絡員へ冷ややかな目を向け、一通の密書を手渡した。
「……これが八坂屋の草鞋の構造と、養生膏の合わせ、そして区間割りの写しよ」
「はっ。……お初様、本隊の者どもが第5区・碓氷峠の終盤にて、八坂屋の頭脳である『宗吉』を仕留めるべく待ち伏せております」
連絡員の報告に、お初は一瞬だけ息を呑み、すぐさま鋭い眼光を走らせた。
「ダメよ、殺させはしないわ。宗吉を失えば、八坂屋の技術や爆速通信網の全貌が掴めなくなる。……それに、手傷を負った宗吉を私が助け出し、たすきを受け取って駆け出せば、八坂屋の奴らは私を完全に信用するわ」
「ははっ、流石はお初様。では、そのように手配いたします」
影が暗闇の中へ消えた後、お初は華奢な手縄をぎゅっと握りしめた。
(宗吉さん……あなたたちの技術は我ら真田の忍び衆がすべていただく。……だから、こんなところで死なせはしないわ)
東の空を見上げれば、仲間たちの想いを乗せた浅葱色のたすきを胸に、宗吉が過酷な碓氷峠の激坂へと挑もうとしていた――。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
次回、天下の難所・碓氷峠で宗吉に最大のピンチが訪れます!
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次回もどうぞお楽しみに!




