第18話:暗雲の碓氷峠、阻まれた街道
伊蔵さんが魅せた圧倒的な爆走劇を皮切りに、八坂屋の浅葱色のたすきは破竹の勢いで中山道を北上していた。
2区を務めた新吉、3区・4区の若手たちも宗吉の授けた呼吸法と足の刻みを守り抜いて、嶋屋との差をぐんぐんと広げていた。
そして勝負は、中山道前半最大の正念場――標高一千メートルを超える激坂『碓氷峠』へと突入する。
「ここが……中山道の天下の険、碓氷峠か……!」
第5区の走者として松井田宿でたすきを受け取った俺――宗吉は、目の前にそびえ立つ壁のような激坂を見上げて不敵に口角を上げた。
かつて現代の箱根駅伝・5区で「山登りの神」と呼ばれた俺の走術が、猛烈に疼く。
みぞおちから上をわずかに前に倒し、骨盤を立てて股関節のバネで小刻みに足を回転させる。登り坂で脚の筋肉を無駄遣いしない現代走法だ。さらに俺の足を支えているのは、足元を固める『対・岩場用 特製厚底草履』だった。
山登りの衝撃を和らげ、露岩の滑りを防ぐ――俺の着想をお蘭が構造として形にし、草履職人の源蔵親方が熟練の手仕事で一双に編み上げた逸品。
編み込みに練られた馬毛と松脂が濡れた岩肌にピタリと張り付き、爪先の極小鉄鋲が岩の微細な窪みを捉える。内側の鹿革が突起を殺し、足裏に痛みすら与えない。
「ハッ、ハッ、ハッ……! 登れる……! 箱根の山に比べれば、どんな激坂だろうと俺の敵じゃない!」
驚異的な速度で急勾配を駆け上がっていく。追撃してくる嶋屋の走者の影すら見えない。
だが――峠の中腹、切り立った崖に挟まれた狭い岩場に差し掛かった、まさにその時だった。
モクモクと激しい音を立て、前方の街道一面に甘臭い不気味な紫煙が立ちこめた。
「ぐっ……!? なんだこの臭いは……呼吸が……!」
思わず吸い込みかけた瞬間、肺の奥が麻痺し、手足の先から急速に力が抜けていくような激痛が走る。
「無駄だ八坂屋。吸えば手足が痺れる特製の痺れ薬だ」
崖の上から、嶋屋の手配した刺客が無表情に俺を見下ろしていた。
(くそっ……! 息を吸えば全身が麻痺する……!)
絶体絶命の直前、思考が冴え渡る。出発前、勝のオジキが「嶋屋が闇ルートで怪しい痺れ薬を買い漁っている」と裏情報を届けてくれた。
「――勝のオジキ、お蘭、玄一! かたじけないッ!」
俺は胸元から、二人が用意してくれた『特製の防毒面具(口覆い)』を素早くひったくり、鼻と口へ固く縛りつけた!
密閉布の間に詰まった木炭と薬草の粉末が毒気を鮮やかに削ぎ落とし、口の中に薄荷の清涼感が広がる。
毒気は濾過でき、全身の麻痺という最悪の事態は回避できた。
――だが、面具を縛る一瞬に吸い込んだ毒気と、瞬間的な猛烈な酸素不足までは拭えない。激しく乱れた肺の動悸によって、走る歩調が致命的なまでに鈍ってしまう!
「ハッ……ハッ……くそっ、足が……重い……!」
その失速を、嶋屋は見逃さなかった。後方から無駄のない足取りで追いすがってきた嶋屋の5区走者が、冷酷な眼光で俺を薄く見下ろす。
「――八坂屋、ここまでだな」
一瞬の隙を突かれ、嶋屋の走者が風のように俺の横を突き抜け、前方へと躍り出た!
さらに追い打ちをかけるように、前方の街道で凄まじい落雷のような破壊音が響き渡る。
ドスゥゥゥンッ――!!
甚兵衛の手下が崖を破砕し、俺の目の前で本筋の街道を土砂と大木で完全に塞ぎ切ったのだ。嶋屋の走者が通り抜けた直後を狙った、寸分の狂いもない阻害工作だった。
「迂回路へ回れば半刻の遅れ。勝負はついた」
工作員たちの冷ややかな声が遠ざかる。土砂崩れで塞がれた岩壁は、とても越えられる高さではない。
(くそっ……! 抜き去られ……道まで閉ざされた……! もう……駄目なのか……!?)
視界が歪み、膝がガクガクと震える。八坂屋の暖簾が頭をよぎり、深い絶望が胸を押し潰しかけた。
だが――胸の内に残る温もりが、俺の意識を強烈に引き戻した。
日本橋を出発する直前、千鶴が俺の掌へ持たせてくれた小さな竹筒。玄一と一緒に作ってくれた、疲労を瞬時に吹き飛ばす高濃度の養生丸(栄養剤)だ。
(みんなが……一緒に走ってくれているんだ!)
俺は血の滲む手で竹筒の栓を抜き、養生丸を口へ放り込んだ!
高濃度の甘みと甘草、生薬の強烈な薬効が、舌から瞬時に全身の血流へと駆け巡る。麻痺しかけていた筋肉に、爆発的な熱がみなぎっていく!
「――ふぅぅぅッ!! 負けるか……負けるものかぁぁッ!」
限界を超えて復活した俺は、迷わず激しい藪の茂る険しい山道の迂回路へ躍り出た!
道などない岩と根の急斜面。俺は上半身の軸をブレさせず、着地の瞬間に重心を素早く足の上へ乗せる現代トレイルランの技術で、滑る斜面を滑空するように登り進む。特製草履の鉄鋲が力強く土を噛み、枝が着物を引き裂いても、速度は落ちない。
胸に揺れる浅葱色のたすき――箱根の楓が手縫いし、千鶴たちが無事を祈り、伊蔵さんたちが繋いできてくれた想いが、俺の脚を前へ前へと突き動かす!
「ハッ……ハッ……ハッ……! 追いついてやる……絶対に……俺たちの継ぎ飛脚は終わらせないッ!」
「山登りの神」の執念と驚異的な爆走で、俺は壊滅的だった差を殺倒的に縮め、ついに迂回路を打ち破って峠の頂上付近――6区の中継所(軽井沢宿手前)のすぐ手前まで辿り着いた。
杉木立の隙間から、ほんの数十歩先に中継所の立て札と、たたずむ影が見える。
「ハッ……ハッ……お初……! もうすぐ……届くぞ……!」
全身擦り傷だらけで息は絶え絶え、体力は完全に底をついていた。だが、あとわずか数歩で中継所に辿り着く――まさにその直前のことだった。
ザッ……。
霧深く立ちこめる杉木立の暗がりから、不気味な気配とともに異様な殺気が噴き出す。
「……見事な走りだ、八坂屋の宗吉」
中継所の目と鼻の先、俺の進路を遮るようにして霧の中から現れたのは、黒装束に身を包み、鋭い眼光を放つ三人の男たち。手にはギラリと冷たい光を放つ小太刀が握られていた。
嶋屋の手配したゴロツキなどではない。信州の山奥に潜む本物の暗殺集団――『真田の忍び』の本隊だ。
「八坂屋の頭脳……お前の命と、その技術……ここで絶たせてもらう」
中継所に辿り着く直前、退路を塞ぐように殺気を孕んだ刺客たちが刀を構え、疲弊した俺を完全に包囲する。
険しい迂回路を破り、満身創痍で傷ついた俺に、刀を払う力すら残されていない。
中継所を目前にして突きつけられた、絶体絶命の死の刃――!
(くそっ……あと数歩で中継所だっていうのに……刺客かよ……!)
絶望が渦巻く霧の街道に、刀を抜く冷酷な音がシャキリと響き渡った――。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
絶体絶命の宗吉……! お初はどう動くのか!?
次回もぜひお楽しみに!
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