第42話:狂気の脚と、第二区の死闘
【一】早駕籠を抜く黒き影と、狂気の異常
尼崎宿で熊五郎からタスキを受け取った第二区走者・吉松は、西宮宿へ続く街道を軽快に駆け抜けていった。
第一区で大きくリードを奪った安心感の中、追走する早駕籠の中で宗吉たちが小窓から前方の吉松を見守っていた、その時だった。
ガラガラと車輪や足音が響く街道で、後方から凄まじい風切り音が迫ってきた。
「なっ……後方から、黒羽屋の第二走者か!?」
宗吉が振り返るのと同時に、一人の男が猛烈な速度で宗吉たちの乗る早駕籠を横から一気に抜き去っていった。
その瞬間、小窓越しに男の顔を見た千鶴が、顔を蒼白くさせて悲鳴に近い声を上げた。
「宗吉、いまの男の目と呼吸を見て……! あれは……蘭学の禁書にある、痛みを麻痺させて心臓を異常に煽り立てる猛毒の薬(阿片の劇薬)を使っているわ!」
男は目が異常に血走り、皮膚に浮き出た血管が不気味に赤黒く脈打っていた。足裏の皮が破れ、血が滲み出ているにもかかわらず、一切の痛みを感じていないかのように狂った顔で地を蹴り続けている。
「阿片か……! 自分の命と引き換えに限界を超えた脚力を引き出していやがるのか!」
宗吉は拳を強く握りしめた。黒羽屋は勝利のためなら、自らの飛脚の命すら使い捨ての道具として扱っているのだ。
【二】生駒での教えと、正気の呼吸
劇薬によって痛覚を失った黒羽屋の走者は、早駕籠を置き去りにし、前方を行く吉松の背中へと一気に肉薄した。
「ハハハ! 抜いたぞ! 八坂屋のガキめ、俺の走りに追いつけるかぁッ!」
狂気のごとき脚力で横を抜き去っていく男の姿に、吉松の心に激しい焦りが生じた。腕の振りが乱れ、息が上がって脚が重くなりかけたその時、吉松の脳裏に生駒の山嶺で宗吉と汗を流した特訓の日々が鮮明に蘇った。
『吉松、相手に惑わされて自分の限界を超えた速度に付き合うな! 人間の身体は急激な乱れに耐えられねえ。焦った時こそ、体の軸と呼吸の周期を守るんだ』
あの日、宗吉は自分の胸を叩きながら力強く手本を示してくれた。
『二回吸って、二回吐く! 深い呼吸で血液の中に酸素を送り込め! 新型草鞋の反動を使って足裏全体で着地しろ。科学の走りは、闇雲な根性や力みには絶対に負けねえ!』
(そうだ……! 宗吉の言う通りだ! 俺には源造親方の草鞋と、千鶴ちゃんの滋養水、手当て、そして宗吉から教わった正しい走りがある!)
吉松は乱れかけた呼吸を深く整え、足裏全体で効率よく地面を捉え直した。無駄な力みを削ぎ落としたしなやかな走法が、失われかけた推進力を完璧に蘇らせていく。
【三】西宮宿への着差勝負
西宮宿の中継所が見える直線に入った。
無理な負荷をかけ続けた黒羽屋の走者の脚は、すでに限界を迎え始めていた。膝がガクガクと震え、激しい吐血とともに急激に失速していく。
「ガハッ……!? なぜだ……なぜ足が動かねえ……! 俺は痛みを感じねえはずだ……!」
「お前が捨てたのは痛みだけだ! 身体の仕組みと命を粗末にする走りが、俺たちの絆に勝てるわけねえだろッ!」
吉松は静かな高揚とともに、失速した黒羽屋の走者を一気に抜き去った。
お蘭の走りの着物が風を切り、新型厚底草鞋が西宮宿の石畳を力強く噛み砕く。
「吉松ーッ! 来いッ!」
第三区の走者が手を広げて待つ中継点へ、吉松は弾丸のごとく飛び込んだ。
「頼んだぞッ、第三区!」
朱色のタスキが美しく空を舞い、三番手の胸へとしっかりと結ばれた。
黒羽屋の走者が崩れ落ちるように倒れ込む横で、八坂屋はリードを保ち兵庫宿へと向かう。正しい科学と絆が、狂気の薬物を完全に打ち破った瞬間だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
早駕籠を抜き去る黒羽屋の異形走者の異常に気づいた宗吉と千鶴!
激走の中で宗吉の教えを思い出し、正気の科学と絆で相手を抜き返した吉松が見事に第二区・西宮宿でもリードを保ちました!
次回第43話、第三区〜兵庫宿での激闘と、瀬戸内の海風が吹く海岸線コースでの新たな試練!
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