第37話:二人きりの一夜、密命の波乱
【一】夫婦の勘違いと、暗がりの中の詰問
西国街道での第一回試走を終えた八坂屋一行だったが、水野景時からの緊急の呼び出しを受け、宗吉と千鶴は二人で急ぎ江戸へと戻る道中にあった。
箱根の手前にある小さな宿場町に到着した頃には、すっかり日が暮れていた。疲労の色が見える千鶴に、宗吉は優しく声をかけた。
「千鶴、大丈夫か。かなり無理をさせてしまったな」
「……ええ、私は大丈夫よ。あなたこそ足を痛めていない?」
「へッ、俺の脚と粘り強さは伊達じゃねえよ。」
(……っと、まいったな)
自分の口から自然と出たべらんめえ調に、宗吉は心の中で苦笑した。
(……最初は標準語で話していたはずなのに、八坂屋の荒くれ飛脚どもと毎日汗を流しているせいか、俺もだいぶこの時代の口調が板についてきたな)
そんな宗吉の自覚をよそに、宿の帳場で部屋を頼むと、年配の女中が二人を交互に見つめ、親しみあふれる笑みを浮かべた。
「はいはい、お二人さんですね。お若いご夫婦で、えらく仲がよろしいことで。奥様もお綺麗でお似合いだ。すぐにお部屋へ案内しますよ」
「えっ!? い、いえ、あの……! 私たちは夫婦では——」
千鶴が顔を真っ赤にして慌てて手を振るが、女中は「まあまあ、照れなくてもいいんですよ」と、こちらの言い分を聞かずに奥の部屋へと案内してしまった。
用意された部屋に入ると、そこには布団が二つ、仲良く並べられて敷かれていた。
部屋を取り直すこともできず、二人は真ん中に荷物を挟んで並んで横になった。
しんとした部屋の中に、お互いの静かな息遣いと心拍音が伝わってくる。千鶴からほんのりと香る薬草の匂いに、宗吉の胸が高鳴ったその時、暗闇の中で千鶴が小さく寝返りを打った。
「……宗吉。寝ているの?」
「いや……起きているよ」
「ねえ……前々から聞きたかったのだけれど」
千鶴の声はどこか硬く、静かな熱を帯びていた。
「……あなたにとって、箱根の楓ちゃんや、新しく入ったあのお初さんは……一体どういう存在なの?」
「え……?」
想定外の問い詰めに宗吉が言葉に詰まると、千鶴は布団の中でぎゅっと着物の袖を握りしめた。
「楓ちゃんは箱根であなたを看病した大切な恩人だし、お初さんは凄まじい身のこなしであなたを護ってくれた……。二人とも可愛らしくて、頼もしいわ。それに比べて私は……あなたに口うるさく小言を言うだけで……」
語尾を少し震わせながら、千鶴は意を決したように宗吉の方を向いた。
「答えなさいよ、宗吉。あなたにとって、あの二人と私は……何が違うの?」
暗闇の中、千鶴の瞳がすがりつくように宗吉を見つめていた。宗吉は胸の奥が熱くなるのを感じながら、真ん中の荷物を挟んで千鶴の目をまっすぐに見返した。
「違わないわけないだろ。楓ちゃんは大切な恩人で、お初さんは頼もしい仲間だ。でも……俺の命を預けて、科学と技術で一緒に八坂屋の走りを創り上げてきたのは、千鶴……お前だけなんだよ。千鶴がいなきゃ、俺はここまで走れてねえ」
「な……ッ!?」
ストレートすぎる告白のような言葉に、千鶴は一瞬息を呑み、耳の端まで朱に染まった。
「な、何を言っているのよ大馬鹿者! 私はただ、自分の栄養学の理論を証明したいだけなんだから! 勘違いしないで!」
布団を頭からかぶって横を向いてしまった千鶴だが、その背中からは激しい動悸が伝わってきた。二人は甘い緊張感を胸に抱いたまま、静かに夜を明かしたのだった。
【二】水野の極秘命令と、長州への密書
箱根を越えて江戸・日本橋の八坂屋へと到着した宗吉と千鶴を、奥書院で待っていたのは、幕府大目付・水野伊豆守景時だった。
水野は周囲の気配を伺い、声を潜めて重々しい眼光で二人に密命を下した。
「宗吉、千鶴。此度お主たちを呼び戻したのは、公にはできぬ幕府からの極秘の特命のためだ。表向きは黒羽屋との街道勝負を続けよ。だがその裏で、長州の佐幕派の重臣へ、この幕府の密書を絶対に届けよ」
「長州へ密書を……!?」
「そうだ。公儀の役人が動けば西国の反乱分子に動きを察知される。お主たちの足で、勝負に偽装して長州の佐幕派へ密書を送り届けるのだ。もし仕損じれば、天下は戦の火の海となろう」
水野の密書を預かり、宗吉と千鶴は背筋を正して固く頷いた。
【三】楓の奉公と、爆裂する嫉妬
水野との密談を終え、宗吉と千鶴が二人揃って表の店へと戻った時のことだった。
「あっ……! 宗吉さん、お帰りなさいませ!」
店内で手際よく立ち働いていた若い娘が、パッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。箱根の茶屋の娘・楓だった。
「えっ、楓ちゃん!? なんで江戸の本店に……!?」
「父からお許しをいただき、八坂屋様のお役に立ちたくて奉公に参りました。これからはお店の切り盛りや、皆様の賄いをお手伝いいたします!」
控えめに、けれど一途な瞳で宗吉を見つめ、嬉しそうに微笑む楓。
その時、宗吉の隣に立っていた千鶴の全身から、恐ろしいまでの冷気が立ち上った。
一緒に江戸へ戻ってきたはずの宗吉の横で、千鶴は不機嫌という言葉すら生ぬるい表情で、薬箱をぎゅっと抱え直した。
「……へえ。わざわざ箱根から素敵な看板娘さんを呼び寄せて奉公させるなんて、大層なお手回しですこと。旅の最中、私に隠れてどんな文を交わしていらっしゃったのかしら?」
「ち、千鶴……!? 違うぞ、俺が呼んだわけじゃ——」
昨夜の宿場での甘い雰囲気はどこへやら、千鶴の瞳に嫉妬の火花が激しく散った。
「私に言い訳なんてしなくていいわよ! 飛脚たちの体の管理や栄養の調合なら私が完璧にやっているのに、どうして箱根から女の子を呼び寄せる必要があるのかしら!?」
ゴトン! と薬研を激しく叩きつけ、千鶴の嫉妬が大爆発した。
「べ、別にあなたが誰に奉公されようが私の知ったことじゃないけれど! 私はただ、蘭学医として当然の仕事をするだけなんだから! 変な勘違いしないで頂戴!」
真っ赤になった顔を背けつつも、楓に対して猛烈な対抗意識を燃やす千鶴。
黒羽屋との勝負、幕府からの極秘の密書、そして二人のヒロインが火花を散らす八坂屋の陣営。
巨大な陰謀と、甘酸っぱい波乱が交錯する中、宗吉たちの新たな戦いが幕を開けるのだった。
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