第35話:西国街道の遠征と、不敵な覚悟
【一】西国街道への旅立ちと「新装」の威力
八坂屋の「長州走破」に向けた第一回試走遠征が、早朝の大坂・京橋からスタートした。
先陣を切るのは、科学走法を体得し、漆黒の「走りの着物(筒袖と改良股引)」と背中の「背負い給水筒」を身につけた雑草軍団の面々だ。
「おいおい、なんだあの軽さは……! 腕も足も一切突っ張らねえぞ!」
「走りながら背中のゴム管から水が飲める! 白湯を飲むために足を止める必要が一切ねえ!」
西国街道を駆け抜ける熊五郎は自分の走りに確かな手応えを感じていた。
風の抵抗を極限まで減らした着物と、背中に密着させた水袋。
従来の飛脚が茶屋に駆け込んで水を飲み、汗で重くなった着物に苦しんでいた時間を、完全にゼロへと削り取っていく。
「これなら黒羽屋の宿場町締め出しなんて、痛くも痒くもないぜ」
宗吉は不敵に笑い、自らも軽やかに街道を並走していった。
【二】黒羽屋の金の力と、お初の冷徹な眼光
だが、黒羽屋の当主・成三の陰湿な手回しは、単なる「宿や食料の拒絶」だけにとどまらなかった。
第二中継点の宿場町・尼崎の手前に差し掛かった時、先回りをしていた八坂屋の走童が青ざめた顔で駆け込んできた。
「宗吉さん、大変です! 黒羽屋が大金を使って街道沿いの宿場や茶店を買収したらしく、すべての井戸に『この井戸は腐れ水につき使用禁止』の札を立てさせ、八坂屋への水と井戸の提供を固く禁じています!」
「なに……!? 金の力で水まで封じに来たっていうのか!?」
勘太が怒りで拳を握りしめる。
宿場町での給水を完全に断ち、八坂屋の走り手たちを脱水と疲労で物理的に潰そうという冷酷な策略だった。
雑草軍団の男たちに動揺が走る中、列の後方を乱れぬ足取りで走るお初は、背筋をすっと伸ばしたまま、冷静にその情景を観察していた。
(……金の力で水まで奪うとは、黒羽屋のやり口は相変わらず卑劣極まる。ですが……)
お初は自身の懐にある補給水飴と、黒羽屋へ提出するための密書にそっと手を触れ、宗吉たちの背中を見つめた。
(八坂屋のこの背負い給水筒と濃縮水飴があれば、宿場の井戸などに頼らずとも一里や二里は容易に走り抜けられるはず。宗吉殿の構築した仕組みは、黒羽屋の浅知恵など遠く及ばない領域にある……)
信念と規律を重んじるお初の瞳に、不義を働く黒羽屋への強い蔑みが宿っていた。
【三】「水封じ」の粉砕と、雑草たちの絆
「焦るな、みんな!」
宗吉の声が街道に響き渡る。
「俺たちが背負っている給水筒には、千鶴さんが調合した特製の梅塩水がたっぷり入っている! 井戸を買い叩かれようが、最初から茶屋に立ち寄る気なんてねえよ!」
「そうだ! 腹が減ったら、この吸い飴を一口吸えばすぐに力が湧いてくる!」
勘太もすかさず声を張り上げ、飛脚たちに予備の補給飴を配り直す。
「よし……行くぞ! 黒羽屋の汚ねえ罠なんか、足の速さでぶっちぎってやれ!」
熊五郎が咆哮し、背中のゴム管から一口含んだ梅塩水を力に変えて、再び爆発的な加速で街道を駆け出した。
「おおうっ!!」
金の力で水を封じ、苦しむ八坂屋を高みの見物と決め込んでいた茶屋や宿場町の手先たちが、呆然と見守る。
八坂屋のランナーたちは井戸に立ち寄る素羽すら見せず、一滴の水も乞うことなく、疾風のごとく街道を走り抜けていく。
黒羽屋が莫大な金を投じて仕掛けた「水封じ」の罠は、宗吉と千鶴、そしてお蘭の技術の前に、何の効果もなさずに粉砕されたのだ。
【四】暗雲――夜の野営と、二人の誓い
日暮れ前、第一回の試走遠征は見事な刻限で目標の宿場へと到達し、雑草軍団は野宿の陣営で歓喜の声をあげていた。
「ハハハ! 見たか黒羽屋! 井戸が使えなくたって、俺たちの足は止まらねえぞ!」
「宗吉さんの作ったこの着物と水袋、最高だぜ!」
焚き火を囲み、千鶴の特製飯を腹いっぱい食らいながら笑い合う男たち。
一方、賑やかな焚き火から離れた街道の脇で、宗吉は千鶴と二人並んで腰を下ろしていた。
「宗吉、はい。温かい汁物よ。冷えないうちに飲みなさい」
千鶴から手渡されたお椀を受け取り、宗吉はほっと一息ついた。
「ありがとな、千鶴。今日の水封じの突破も、お前が作った梅塩水と補給飴のおかげだ。千鶴がいなきゃ、いくら走りの着物や給水筒があっても乗り越えられなかった」
不意にストレートな感謝を伝えられ、千鶴は一瞬きょとんとしたが、すぐに慌ててプイと横を向いた。
「な、何言ってるのよ急に……! べ、別にあなたのためにやったわけじゃないわ! 私はただ、自分の栄養学と調合の理論がどこまで通用するか試しただけなんだから!」
真っ赤になった耳を隠すように着物の袖を引っ張る千鶴。宗吉は思わず苦笑しながらも、その変わらぬ温かさに胸の奥がじんと熱くなった。
「でもね、宗吉……」
千鶴は少しだけ真面目な顔になり、夜の闇が深まる西国街道の先を見つめた。
「黒羽屋の妨害は、きっとこれだけじゃ終わらないわ。金の力も、手回しも、どんどん卑劣になっていく。本当に……長州まで無事に辿り着けるかしら」
千鶴の瞳に浮かぶ不安を感じ取り、宗吉は胸に斜め掛けした「八坂屋のタスキ」をギュッと握りしめた。その瞳には、どんな闇も切り裂くような不敵で力強い光が満ちていた。
「大丈夫だ。黒羽屋がどんな汚ねえ手を使ってこようが関係ねえよ。千鶴の医学と、お蘭のからくり、源造親方の草鞋、そして仲間たちの足がある。俺たちの『走りの絆』は、金の力なんかじゃ絶対に折れない」
宗吉は千鶴を振り返り、ニタリと力強く笑ってみせた。
「俺が全員の命と脚を守って、必ず長州までタスキを繋いでみせる。……だから千鶴、俺の隣で最後まで見届けてくれ」
「……ええ。当たり前でしょう。あなたが倒れたら手当をするのは私なんだから。絶対に……途中で投げ出させたりしないわ」
ほんのり頬を染めながらも、凛とした強い眼差しで宗吉を見つめ返す千鶴。
夜風が吹き抜ける西国街道の静寂の中、二人の間に交わされた確かな誓いと絆が、これから始まる過酷な戦いへの最高の道標となっていた。
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