第31話:過所町・適塾の秘薬と、咲き乱れる恋の華
【一】適塾
大坂支店の看板を掲げて数日。勘太と鉄の加入で勢いに乗る俺たちは、長州までの長距離走の要となる「補給食」を完成させるため、過所町にある適塾を訪れていた。
適塾――蘭学者・緒方洪庵が開いた、蘭学と医学の最高峰である。
「宗吉、ここが適塾よ。父様の古い知り合いでね、蘭学の文献や薬草の知識なら大坂で右に出る者はいないわ」
千鶴が胸を張る。その横顔には、自分の専門分野に戻ってきたような生き生きとした誇りが満ちていた。
塾の作業場へ入ると、薬草の香りが漂う中で一人の男が調合を行っていた。
千鶴の許嫁(親同士の約束)であり、更なる医学修業のために適塾へ身を置いている天才解剖学者――玄一だ。
「やあ、宗吉殿に千鶴。大坂支店の立ち上げ、順調のようだね」
玄一は扇子をパチンと閉じると、爽やかな笑みで俺たちを迎え入れた。
【二】恋の華
「玄一、今日は前に話していた『走りながら摂る補給食』の試作をしに来たの」
千鶴が切り出すと、奥からからからと笑いながらお蘭が現れた。
「あらあら、いいところに来たわねぇ! 宗吉さん、相変わらず男前じゃないの!」
お蘭はわざとらしく俺の腕にギューッと抱きついてみせる。
「ちょっと! 離れなさいよ、お蘭!」
千鶴が即座に割り込み、お蘭の腕から俺を引きはがした。
「ふふ、千鶴は相変わらずわかりやすいわねぇ」と楽しそうに笑うお蘭に、玄一もニヤリと口角を上げて乗っかる。
「まったく手厳しいな。僕という許嫁がいる手前、宗吉殿ばかり贔屓されると少々照れくさいのだがね?」
「っ〜〜〜〜!? げ、玄一まで何言ってるのよたわけ!」
千鶴が顔を真っ赤にして慌てふためく姿を、玄一とお蘭は「いい反応するわね」「実に微笑ましい」と、完全に生温かい目で見物して楽しんでいる。
そこへ、文を届けに来た八兵衛さんが飛び込んできた。
「宗吉、箱根の『高嶋屋』の楓ちゃんから、文と手編みのお守りが届いたぞ!」
「へえ……手・編・み・のお守り……ねぇ?」
お蘭がニヤニヤと千鶴の顔を覗き込み、玄一も面白そうに喉を鳴らす。
「千鶴、これはうかうかしていられないんじゃないのかい?」
「べ、別にいいわよ! 宗吉が誰からお守りもらおうと、私には関係ないんだから!」
ぷいっと横を向く千鶴だが、その耳の先はトウガラシのように真っ赤だった。
お蘭と玄一は顔を見合わせ、満足そうにクスクスと笑い声を漏らしている。
【三】特製「補給水飴」と、新たな閃き
「さて、そろそろ本題に入りましょうか」
薬草の擂り鉢を抱えた千鶴と玄一が調合に取りかかる横で、お蘭は作業台に肘をつき、興味津々で宗吉の出す指示を覗き込んできた。
「へぇ……薬そのものじゃなく、走りながら素早く体力を戻すための『食べ物』を作るの? 宗吉さん、発想が面白すぎるわ!」
宗吉が現代のエナジージェルの概念(ブドウ糖、塩分、クエン酸の黄金比)を語ると、お蘭は目を爛々と輝かせた。
「身体の動かし方だけじゃなく、食べ物まで走りに合わせるなんて……。ねえ宗吉さん、食い扶持や体調だけじゃなくて、着るものや履き物だって、もっと走るために工夫できるんじゃない?」
「……お蘭さん、鋭いな。実は着物や草鞋も、長距離を走るための改良案があるんだ」
「本当!? やったぁ、次は私と一緒にその衣類や履物の研究をやりましょうよ! 約束だからね!」
からくりの天才らしい閃きに声を弾ませるお蘭を横目に、試作を進めていた玄一が感服の溜め息をついた。
「……すさまじいな、宗吉殿。水飴で急速に活力を補い、塩分と酢で脚の不調を防ぐ……。君の思いつきは、相変わらず解剖学や蘭学の理にかなっている。無ざまな走りを見せたら千鶴の隣は僕がもらうが、今日のところは脱帽だよ」
「玄一!」と千鶴が赤面して叫ぶ中、完成したのは竹筒に詰めて走りながら吸える特製の「補給水飴(葛練り生薬)」だ。
「はい、試作品よ! 宗吉、飲んでみなさい!」
千鶴が差し出してきた竹筒を口に含んだ瞬間――強烈な酸っぱさと苦味が口いっぱいに広がった。
「ぶはっ!? ち、千鶴……めちゃくちゃ苦いんだけど!?」
「ふん! 疲労回復の生薬を『特盛』にしておいたわ! 楓さんのお守りをもらって浮かれてるおバカさんへの、特製おしおきよ!」
「あはは! 宗吉さん、愛されてるわねぇ!」
お腹を抱えて爆笑するお蘭と、楽しそうに扇子をあおぐ玄一。適塾の作業場は、賑やかな笑い声に包まれた。
【四】温かい日常と、お初の小さな変化
試作品を手に過所町を後にする帰り道。
宗吉と千鶴が「苦すぎるよ!」「自業自得でしょ!」と相変わらず言い争い、それを八兵衛が笑いながら宥めている。
その少し後ろを、お初は歩いていた。
(……バカみたいにはしゃいじゃって)
懐にある密書と、適塾でこっそり分けてもらった「補給水飴」の小瓶。
以前なら、迷わず黒羽屋への報告書と一緒に小瓶を送りつけていただろう。
だが、お初はふと足をとめ、夕日に照らされる宗吉たちの楽しげな背中を見つめた。
(……こんな温かいところ、ぶち壊したくないなぁ……)
思わず口から漏れかけた本音に、お初はハッとして口元を押さえる。
毒針を刺さなければいけない己の立場と、日に日に芽生えてしまう八坂屋への情。
お初は懐の小瓶をそっと深く抱え直すと、少し切ない苦笑いを浮かべ、急ぎ足でみんなの輪へ走っていったのだった。
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