第30話:道頓堀の韋駄天
【一】スカウト行脚
「宗吉さん、あいつです! 脚力なら街一番やが、口と素行が悪いせいで問屋を叩き出された男は!」
勘太に連れられてやってきたのは、道頓堀の賑やかな芝居小屋の裏手。
酒の匂い漂う長屋の路地で、一人の男が賭けサイコロを弄びながらあくびをしていた。
名前は、鉄。
元は駕籠描きで、短距離の爆発的な速度なら右に出る者はいないと言われた男だ。
「……なんや自分ら。わてに駕籠を担げっちゅうんか? 悪いがもう足を洗ったんや」
鉄は気怠そうに煙草の煙を吐き出す。
俺は一歩前へ出て、その太い太ももとふくらはぎの筋肉を見極めた。
「駕籠じゃない。長州・萩までの三十区間勝負だ。お前を八坂屋の走者として迎えに来た」
「萩ぃ? けっ、冗談言うなや! わては短距離専門の駕籠描きやぞ。長距離なんぞ走れるかい!」
(こいつは速い。だが、長距離を走り抜くための速さの割り振りをまだ知らないだけだ)
「走れるさ。お前はただ、正しい『走り使いの塩梅』を知らないだけだ」
【二】短距離走者の弱点
「言うてくれるやないか、江戸っ子! なら、勝負だす!」
堂島川沿いの道。
鉄は鼻を鳴らし、宗吉に向かって挑発的に言い放った。
「ここから天満の天神様の『大鳥居』までおよそ一里(約4km)。わてが勝ったら、二度とわてに関わるな!」
「いいだろう。ただし――俺の指示通りに走ってみろ」
「いざ、出でよ!」の合図とともに、鉄は爆風のような速さで飛び出した。
元・駕籠描きの加速力は本物だ。一瞬で十数メートルの差が開く。
(速い……! だが、上半身が力みすぎている)
俺は焦らず、一定の速度を保ちながら追従する。
五百メートルほど進んだあたりで、案の定、鉄の脚がピタリと止まりかけた。
肩が上がり、息が荒くなり、顎が上がっている。前半に力を使い果たした典型的な自滅だ。
「はぁ……はぁ……クソッ、なんで脚が……上がらん……!」
追い抜いた俺は、並走しながら声を張った。
「鉄! 息を吐け! 空気を吸う前に、まず全部吐き出せ! 腕の振りを小さくして、足を刻む調子を落とするな!」
「な、なんやと……!?」
「呼吸を整えろ! 俺の走る足音に拍子を合わせろ! トン・トン・トン・トンだ!」
【三】解き放たれた韋駄天
俺が刻む正確な拍子と呼吸法に、鉄が必死で喰らいついてくる。
苦しさで歪んでいた鉄の表情が、次第に驚きへと変わっていった。
(……なんやこれ? 息が……楽になっていく!? 速さを落としたはずやのに、身体が前に進む……!)
「最後の追い込みだ、残り二町(約200m)! 腕を振れ、鉄!」
「うおおおおおおっ!!」
土壇場の追い込みで、鉄は再び爆発的な加速を見せ、大鳥居の前に倒れ込むように駆け込んだ。
膝に手をつき、肩で激しい息を吐きながらも、鉄の目は興奮で輝いていた。
(あの加速力と筋持久力……きちんとした鍛錬で配分を叩き込めば、間違いなく主力を張れる最高の走り手になる!)
「……なんや今の走り……! わて、一里を一度も止まらんと走り切ったんか……!?」
「お前の速さは本物だ。ただ、配分と息の整え方を知らなかっただけだ。長距離でも、お前は最強になれる」
俺が差し出した手を、鉄はしばらく見つめたあと、力強く握り返してきた。
「……参ったわ。江戸の飛脚頭さんよ……わてを、その仲間にいれてくれ!」
【四】着実に繋がるタスキ
夕暮れの大坂支店。
「よし! これで走者は俺、伊蔵、連次、お初、勘太、そして鉄の6人。残り24人だ!」
「へへっ、宗吉さん! わて、明日も骨のある奴らに声をかけてみます!」
勘太が嬉しそうに胸を叩き、鉄も「わてに任せとき!」と頼もしく笑う。
着実に芽吹き始めた八坂屋の雑草軍団。
だが――その活気あふれる土間の奥で、お初は手紙を固く握りしめていた。
(……二人目の採用、元駕籠描きの鉄。八坂屋の走法により長距離への適性を獲得……)
(また一人、最高の走者が増えてしまった……。黒羽屋様へこの報告を渡せば、この男たちの努力が全て踏みにじられる……)
揺れる心と、胸を刺す毒針のような使命。
大坂支店が活気を帯びるほどに、お初を包む暗雲は静かに、そして濃厚に立ち込めていくのだった。
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