第29話:なにわの雑草、芽吹く刻
【一】八坂屋・大坂支店
淀屋徳兵衛の豪快な鶴の一声から二日。
俺たち八坂屋に、早くも大坂での「城」が与えられた。
堂島川沿いの好立地にある二階建ての立派な借家。看板には力強い文字で『八坂屋 大坂支店』と掲げられている。
「……すごいですな、宗吉。看板も店舗も、淀屋さんが手配してくれた大工があっという間に仕上げちまった」
八兵衛さんが感極まった様子で看板を見上げる。
だが、広い土間に置かれた帳場机と長持ちは、ぽつんと寂しげだった。
「箱は完璧だ。問題は……ここに集める走者だな」
俺――宗吉が腕を組みながら呟くと、奥からお茶を運んできた千鶴が微笑んだ。
「大丈夫よ、宗吉。中山道の時も、私たちはたった一人から始めたじゃない」
「ああ。……で、その記念すべき第一号を、呼んである」
【二】泥の中の原石
「た、たのもう……! 八坂屋さんは、ここでお合ってますか……!?」
ガラリと戸が開くと、おそるおそる顔を出したのは、一昨日に黒羽屋の手下から救い出した野良飛脚の勘太だった。
膝や肘に痛々しい包帯を巻いているが、その目はまっすぐに俺たちを見つめている。
「ようこそ、勘太。怪我の具合はどうだ?」
「おかげさまで、千鶴お嬢さんにいただいた塗り薬のおかげで、すっかり良くなりました! ……それで、宗吉さん。『うちで走らんか』って文、ホンマなんですか……!?」
「本当だ。来年三月、大坂から長州・萩までを繋ぐ全三十区間(約六百キロ)の大勝負がある。俺たちは、黒羽屋を倒すための飛脚隊を作っているんだ」
「く、黒羽屋を……!?」
勘太が息をのむ。俺は勘太の全身を、元・陸上選手としての鋭い目線で観察した。
小柄だが、重心が低くブレない腰回り
重い荷物を背負い続けたことで自然と鍛え上げられた、強靭な体幹と大腿の筋肉
路地に広がる米を必死で拾い集めていた、折れない泥臭い根性
(間違いない。こいつはハーフマラソンや長距離の適性を秘めた、磨けば光る原石だ)
「勘太。お前、普段はどれくらいの荷物を担いで街を走ってる?」
「へえ……五貫(約18kg)から、重い時は十貫(約37kg)近い米や小荷物を担いで、朝から晩までなにわの町中を駆け回ってます」
「よし。今すぐその荷物を下ろして、表へ出ろ」
「え……? 荷物を……下ろす……?」
【三】解き放たれた脚
堂島川沿いの平坦な街道。俺と勘太は並んで立った。
「いいか、勘太。今までお前が走れなかったのは、脚力がないからじゃない。背中に重りを背負わされ、下を向いて走っていたからだ」
俺は勘太の背中に手を当て、フォームを整えるように姿勢を正させる。
「顎を引け。視線は百尺(30メートル)ぐらい先。肩の力を抜いて、腕を後ろに大きく振れ。背中の重りはもう無い。思い切り地面を叩け!」
「あ、顎を引いて……腕を振る……」
「よし、あそこの橋のたもとまで――突っ走れ!」
「うおおおおおっ!?」
宗吉の合図とともに飛び出した勘太から、思わず叫び声が上がった。
速い。
重荷から解放された勘太の体幹はピタリと安定し、鍛え抜かれた太ももが爆発的な推進力を生み出していく。川沿いの風を切り裂き、弾むように街道を駆け抜けていく姿は、まるで檻から解き放たれた野生の鹿だった。
(あの体幹の安定感と筋持久力……ちゃんとしたトレーニングでペーストレーニングを仕込めば、間違いなく主力を張れるランナーになる!)
「……なんやこれ……! 軽い……身体が、飛んでるみたいや……!」
橋のたもとで立ち止まった勘太は、自分の両手と脚を見つめ、肩で息をしながら震えていた。
「どうだ、勘太。それがお前の本当の走りだ」
追いついた俺が肩を叩くと、勘太の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「わて……ずっと、落ちこぼれの野良飛脚やと思ってました。問屋にも雇われへん、ドジでノロマな飛脚やと……」
「お前はノロマなんかじゃない。この大坂で一番強い足腰を持った走り手だ。……俺と一緒に、黒羽屋の鼻柱を折りにいかないか?」
勘太は袖で力強く涙を拭うと、宗吉の目をしっかりと見据えた。
「やりたいです! 宗吉さん、わてを……八坂屋の飛脚にしてください!」
【四】忍び寄る影
その日の夕刻。
八坂屋の奥の間では、さっそく勘太を交えた作戦会議が開かれていた。
「これで走者は、俺、伊蔵、連次、お初、そして勘太の5人。目標の30人まで、あと25人だ」
「わてみたいな野良で燻っとる骨のある奴が、大坂の街にはまだまだ眠っとるはずや。わて、仲間の飛脚やら落ちこぼれに声をかけてみます!」
頼もしく胸を張る勘太の姿に、千鶴も嬉しそうに頷く。
だが――その賑やかな輪から少し離れた陰で。
お初は静かに帳簿を整理しながら、袖の中に隠した竹筒の感触を確かめていた。
(現地採用第一号……勘太。走法指導による劇的な速度向上……)
胸の奥が痛む。
宗吉たちの情熱と、勘太の弾けるような笑顔を見れば見るほど、自分の手に握られた毒針のような密書の重みが、お初の心を重く締め付けていくのだった。
大坂支店、始動――。
残り25名。なにわの雑草たちを集める宗吉のスカウト行脚が、本格的に幕を開ける!
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