第28話:天下の台所・なにわの風
京・三条大橋での壮絶な大一番から数日。
俺たち八坂屋一行――俺と千鶴、番頭の八兵衛さん、そして中山道をともに走り抜いた飛脚のお初の四人は、淀川をゆっくりと下る「三十石船」に揺られていた。
川面に映る朝焼けの光が、やがて無数の橋と巨大な蔵の影へと姿を変えていく。
網の目のように巡らされた堀川と、活気あふれる威勢の良い掛け声。
「……すごい。江戸の八百八町も大したもんだと思ったが、ここは街全体がひとつの巨大な市場だな」
俺――元・箱根駅伝5区のランナーであり、八坂屋の看板走者を務める宗吉が船の甲板から呟くと、隣に立つ千鶴が藍色の小袖の袂を押さえながら頷いた。
「ええ。大坂は『天下の台所』と呼ばれる日本の物流の心臓部。父の旧友である緒方洪庵先生もおっしゃっていたわ。ここに流通する物資と情報の量は、江戸の比ではないと」
船が八軒家浜の船着き場に滑り込むと、八兵衛さんが感無量といった面持ちで荷を抱え直した。
「宗吉、千鶴お嬢さん。いよいよ、なにわの地に足を踏み入れますな……!」
お初は静かに一行の後ろにつき、凛とした黒髪を風になびかせながら、鋭い視線で大坂の街並みを観察していた。
緒方先生の紹介状を胸に、俺たちは「堂島」――世界初の本格的な先物取引が行われている、堂島米会所のすぐ近くに構える大問屋『淀屋』へと向かっていた。
だが、賑わう堀川沿いの小道に差し掛かったときだ。
「おい、待てやコラッ! 打ち首になりたいんか、このドジが!」
ダーン! と激しい音とともに、米袋を担いだひとりの若者が、豪華な着物を着た大男に突き飛ばされた。若者が地面に倒れ込み、弾けた米袋から白い米がザーッと路地に広がる。
「す、すんまへん! 急ぎの届け物の途中で、足が滑って……!」
「すんまへんで済むかボケ! これは黒羽屋の旦那の大事な仕入れ米やぞ! 弁償できるんか、あぁ!?」
強面の男が怒声とともに若者の胸ぐらを掴み上げ、拳を振り上げた。周囲の町衆は関わり合いを恐れて目を背ける。
男の背中の羽織には、黒い羽の紋章――『黒羽屋』の印が入っていた。
「やめろ!」
気がついた時には、俺の身体が動いていた。
振り下ろされた男の拳を、横から飛び込んでその手首をガシッと掴み取る。
「なんや自分!? 余計な口出しすんな!」
「大人が寄ってたかって一人を痛めつけるもんじゃない。米の弁償なら、俺たちが代わりにする」
俺が冷たく言い放つと、千鶴がすかさず懐から銭を取り出し、男へ投げ渡した。男はチッ、と派手に舌打ちをすると、「黒羽屋に歯向かって、無事でいられると思うなよ」と吐き捨てて立ち去った。
助け起こされた若者は、膝の擦り傷を押さえながら頭を下げた。
「助けてもろて……おおきに。わて、問屋に属さんと荷物や文を運んでる野良飛脚の勘太言います。あいつら黒羽屋の手下は、自分らの配下やない飛脚を見つけたらこうやって言いがかりをつけて痛めつけて、仕事を奪っとるんです……」
(大坂の飛脚界は、すでにそこまで黒羽屋に侵蝕されているのか……)
俺は大坂の街の底に流れる、冷たく陰湿な空気の正体を肌で感じ取っていた。
重厚な大門をくぐり、通された『淀屋』の奥の広間。
そこに座していたのは、豪奢な着物を身に纏い、丸々とした顔に鋭い眼光を宿した男――堂島を仕切る大問屋、淀屋徳兵衛だった。
「――ほう、お前さんらが噂の八坂屋かいな。江戸で嶋屋の狸どもを蹴散らしたっちゅう、変わった飛脚問屋は」
徳兵衛は煙管の煙をくゆらせながら、腹の底に響くような重みのある声で切り出した。
「さっき表で黒羽屋のイヌと一悶着あったそうやな。……単刀直入に言おか。わてがお前さんらを呼び寄せたんは他でもない。この大坂の街で好き放題やって居おる『黒羽屋成三』の野郎の化けの皮、剥ぎ取るためだす」
「黒羽屋……ですか?」
八兵衛さんが身を乗り出す。徳兵衛は苦々しく吐き捨てた。
「あの野郎はな、己の息がかかった飛脚使って米相場の情報を独占し、都合のええように価格を操作しとるんや。相場っちゅうのは、どっちにも肩入れせん『体の良い情報』が命。それを裏でコソコソ操作して、気に入らん問屋は力づくで潰し、さっきみたいに野良の飛脚まで痛めつけてなにわの商いを我が物顔で牛耳っとる……。商人の意地もへちまもあったもんかいな」
徳兵衛は煙管をトントンと灰吹きに叩きつけると、俺の目をじっと見つめた。
「裏でコソコソ叩き潰したかて、ちっとも面白ない。あいつらの鼻を明かすには、お上の目がある公の大勝負で黒羽屋の飛脚を木っ端微塵に叩きのめしてな、その横暴と化けの皮を天下に晒し上げて評判を地に落としたるのが一番だす!」
「公の大勝負……ですか」
「そうや。八坂屋の疾風の如き走法なら、黒羽屋の鼻柱を折れる。……もちろん、タダでとは言わん」
徳兵衛はパンと手を叩いた。すると手代が大きな大坂の地図と、重厚な帳面を差し出してくる。
「八坂屋の大坂支店を開くための店舗と開店資金、すべてわてが全面提供したる。どうや、乗るか?」
八兵衛さんが息をのんだ。大坂支店の開設は、八坂屋にとって西国進出の悲願だ。
しかし、俺は冷静に徳兵衛が広げた街道の地図を見つめていた。
「徳兵衛さん。その勝負、街道の道のりと区割りは……?」
徳兵衛はニヤリと不敵な笑みを浮かべ、指先で西へと続く街道をなぞった。
「道筋は大坂・堂島から、長州の萩まで。全三十区間――道のりにしておよそ百五十里のどえらい長道中だす。開催は来年の三月吉日。あと半年おます」
「なにっ!? 三十区間!?」
八兵衛さんが思わず声を上げた。
「宗吉! 中山道の二十区間すら大きく上回る大勝負じゃねえか! 江戸から連れてこられる走者なんて、本店の手前お前と伊蔵、連次、それにお初を合わせた四人しかいねえんだぞ! 残り二十六人もこの大坂で新たに集めて見立てるなんて、たった半年じゃいくらなんでも無茶だ!」
「宗吉はん。江戸の本店から大勢引き抜かれへんのは分かっとる。大坂で燻っとる野良飛脚やら落ちこぼれの脚力自慢をかき集めてな、半年で黒羽屋を叩き潰す本物の飛脚団に育て上げておくんなはれ。お前さんに、八坂屋大坂支店の『飛脚頭』を任せるで!」
「飛脚頭……」
俺の胸の中で、静かに、だが激しく熱い炎が燃え上がった。
全30区間、約600キロ。1区間あたり約20キロ――ハーフマラソンの距離だ。
現代のトレーニング理論、ペーストレーニング、そして心肺機能を追い込む段階的な走り込みを使えば、この街で踏みつけられている雑草ランナーたちを、半年で最強の集団に変えることができる!
「……やりましょう。半年で、誰も追いつけない最高の飛脚隊を作ってみせます」
俺が力強く答えると、千鶴も隣で「私も養生と食事の面で全力で支えます」と力強く頷いた。
その夜。
大坂の賑やかな喧騒から遠く離れた、暗い露地の陰。
月明かりの下、昼間の健気な表情を完全に消し去ったお初が静かに佇んでいた。
彼女は着物の袖から小さな竹筒を取り出すと、中に密書を滑り込ませ、暗闇から現れた黒衣の密使へと手渡した。密書に記されているのは、本日『淀屋』の屋敷で交わされたすべての会話――三十区間の大勝負、半年の育成期間、そして八坂屋大坂支店の計画。
「……頼みましたよ」
氷のように冷たい声でお初が囁くと、黒衣の密使は疾風のように夜の闇へと消えて行った。
同じ刻。
淀川沿いの豪華な船宿の二階、高台の座敷。
届いた密書を手に、堂島米相場の暴落を指一本で操っていた男――黒羽屋 成三は、優雅に扇子をパチンと閉じた。
「ふっ……淀屋の狸め、相変わらず浅知恵を。……お初も首尾よく八坂屋の懐に潜み続けておるな」
成三の背後、暗がりには二つの影があった。
一人は、儚げな美しさを纏いながらも、どこか哀しげな目を伏せている少女・紫乃。
もう一人は、履き古した極薄の草鞋を履き、気配を完全に消して控える男――浪士飛脚隊隊長、霧生。
「八坂屋の走法とやら、少しは骨があると思ったが……鼠が集まったところで竜には勝てぬ」
成三は窓の外、大坂の夜景を見下ろしながら冷たく吐き捨てた。
「霧生。半年後の三月、奴らが手塩にかけた走者どもを根本からへし折り、誰がこの西国の主か教えてやれ」
「ハッ……御意」
霧生の低い声が、静かに部屋に響き渡った。
八坂屋の大坂支店開設、二十六人の野良飛脚の手配、そして背後に潜む内通者の影――。
翌年三月の『大坂〜萩 三十区間天下最速勝負』に向け、宗吉たちの激動の半年間が、今まさに始まろうとしていた。
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