第27話:三条大橋の歓喜、そして新たなる旅立ち(第二章完結)
「来た……来たぞッ! 八坂屋だぁぁぁッ!!」
朝日に包まれた京・三条大橋。群衆の割れんばかりの歓声が、都の空を大きく揺らした。
橋の袂で待機していた千鶴の視界に、中山道から飛び込んできた一筋の浅葱色の風が映る。
汗と泥にまみれ、胸に血と涙の染み込んだたすきを強く結び直した男――宗吉だ!
(江戸から京まで、幾多の宿場を仲間たちが命がけで繋いでくれたこの浅葱のたすき……最後に託された俺が、必ずここで結実させるッ!)
バシッッ――!!
宗吉の胸が、三条大橋に張られた麻のゴールテープを力強く引きちぎった!
中山道六十九次、約百三十五里(約五百三十キロ)を繋ぎ切った、八坂屋の完全勝利の瞬間であった!
「ゴールインッ!! 八坂屋、堂々の一位ゴールだぁぁッ!!」
歓声が弾ける中、宗吉は叫びながらその場に倒れ込むように膝をついた。
その瞬間、千鶴は誰よりも早く走り寄り、ひらりと裾をさばいてその隣に膝をついた。
「動かないで、宗吉……。脈を取るわ」
千鶴の手が、宗吉の冷えた手首をしっかりと包み込み、的確に寸口の脈拍と身体の状態を確認する。蘭学者として、そして八坂屋の専属医としての冷静なプロの顔。
だが、その指先はわずかに震え、宗吉の荒い息遣いと心臓の鼓動をダイレクトに感じ取るうちに、彼女のなかの理性がプツリと音を立てて揺らいだ。
(……バカね、こんな無茶ばかりして……。でも、あなたが走り抜いてくれたから――)
「脈は……乱れてはいるけれど、体力の全潰滅には至っていないわ。……本当によく耐えたわね」
冷静を装おうと努める千鶴の声だが、潤んだ瞳には隠しきれない熱が宿っていた。
医学的な論理と見立てで自分の感情を必死に抑え込もうとしながらも、極限状態から生還した宗吉を目の前にしたことで、胸の奥からあふれ出す想いが決壊寸前となっていた。
「べ、別に……! あなたの安否に私個人の情が過剰に乱れたわけじゃないんだからね! あくまで、蘭方医学の診立てとして予期せぬ過動の危険を排除したかっただけで……っ!」
千鶴は蘭学者としての見識で自分の恋心を必死に正当化しようと早口でまくし立てるが、その両目は大粒の涙で濡れ、真っ赤に染まった顔のまま、宗吉の袖をぎゅっと握りしめて離そうとしない。
論理と感情の狭間で激しく揺らぐその姿は、彼女のなかに芽生えた恋心が、すでに理性の領域を遥かに超えていることを雄弁に物語っていた。
「っ……本当に、道理の通じない愚か者なんだから……。でも……」
千鶴は小さく息を吐き、意を決したように再び宗吉を真っ直ぐに見据えると、震える声音で紡いだ。
「……無事で、帰ってきてくれて……ありがとう、宗吉」
「あ……」
宗吉は、その言葉にハッと息を呑んだ。
いつも理路整然と自分を叱咤し、冷静に医学の正論を突きつけていた彼女が、初めて見せた丸裸の感情。そして、自分を心配するあまりにぐちゃぐちゃに歪ませた、愛おしすぎるその涙。
その瞬間、宗吉の胸の奥で、今まで「良き相棒」として片隅に置いていた千鶴の存在が、一気に熱を帯びて特別な意味を持って流れ込んできた。
(俺は……こいつに、ここまで心配を……いや、それ以上に……)
宗吉の胸のなかで、ずっと言語化できずにいた温かな疼きが、かすかな「恋心」の形となって静かに灯る。
「……心配かけて悪かったな、千鶴。お前がいてくれたから、最後まで走り抜けられた。ありがとな」
宗吉が優しく微笑むと、千鶴は「っ!」と顔を真っ赤にし、まるで論理の決壊を慌てて塞ぐかのように、すっと背筋を伸ばしてツンと澄ました顔を作ってみせた。
「き、急にそんな気恥ずかしい戯言を口にするものじゃないわよ! ほら、いつまでも地に這いつくばってないで、早く立ち上がること!」
顔を赤く染め上げたままそっぽを向いた千鶴だったが、その綺麗な横顔の唇には、隠しきれない柔らかな笑みが浮かんでいた。
――そこへ、一人の静かな佇まいの男が歩み寄ってきた。
「見事な走りでした、宗吉さん。……そして千鶴君、立派に務めを果たしましたね」
「あ……洪庵先生……!」
現れたのは、当代きっての蘭方医であり、千鶴の父の旧友でもある緒方洪庵だった。
幼い頃から父の書斎や塾で親しく接していた恩人の姿に、千鶴の表情がパッと華やぐ。
洪庵は涼やかな知性を湛えた瞳で、宗吉の足元の『弾性黒ゴム・からくり厚底靴』に興味深そうに視線を落とした。
「南蛮の生ゴムに炭素を混ぜて加熱加硫しているのですね。驚異的な跳ね返りだ。江戸におられるご父君に知らせたら、きっとこの異国の科学と技の融合に目を輝かせて歓喜されるでしょう」
「洪庵先生……お分かりになりますか」
「ええ。ですが宗吉さん、千鶴君。手放しで喜んでばかりもいられませんよ。京の豪商――『黒羽屋』をはじめとする西国の不穏な影が、あなたのその『足元』と『街道を駆け抜けるその速さ』を狙って動き始めていますからね」
「黒羽屋……!」
宗吉はハッと目を見張り、鋭い表情で呟いた。
「嶋屋の背後にいた、本当の黒幕か……!」
「ええ。詳しい話は大坂でいたしましょう。私も大坂で塾を開いております。……千鶴君、君が己の道を見つけて立派に邁進している姿を見られて安心しましたよ。宗吉さん、また大坂の地でお会いしましょう」
洪庵は旧友の娘を温かく見守るような柔らかい一礼を残すと、静かに京の街へと歩み去っていった。
朝日に照らされた三条大橋。
傷ついた足元には、江戸の職人技と現代の知見が生んだ黒き弾性靴が、次なる巨大な歴史のうねりに向けて静かに闘志の光を放っていた。
八坂屋の絆が生んだ奇跡の走法は、京の都を越え、幕府と西国の謀略が渦巻く次なる舞台――西国・なにわの地へと、実りある風を巻き起こしながら繋がれていく!
――所変わって、江戸・北町奉行所。
白洲に引き据えられた嶋屋の店主・勘兵衛は、頭を深々と畳に擦り付け、生きた心地もせずに震え上がっていた。
「ひ、ひぃぃぃッ……! お許しを、水野様、お許しをぉぉッ!」
裁きを下すのは、幕府大目付・水野伊豆守景時。冷徹な眼光を放つ水野が、容赦なく糾問の声を飛ばす。
「嶋屋勘兵衛。大津宿での暗殺未遂、街道への妨害工作……その悪辣の数々、すべて白日の下に晒されたぞ。全財産没収、八丈島への遠島と処す!」
「あ、あぁぁぁーーーッ!!」
絶望の悲鳴を上げる勘兵衛を、水野は冷ややかに一喝し、奉行所の捕方たちが容赦なく引き立てていく。こうして八坂屋を苦しめ続けた江戸の悪党・嶋屋は完全に断罪されたのだった。
(第二章『京の陰謀編』・完 / 第三章へ続く)
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
第二章『京の陰謀編』、ここに完結です!!
三条大橋での感動のゴールイン! 寸口の脈を取りながら理屈で恋心を隠そうとして涙を流す千鶴と、自身の恋心にハッと気づく宗吉!
幕府の構想、そして西国で渦巻く巨大な謀略の影――物語はいよいよ日本全土を巻き込む第三章へ突入します!!
ここまで長らくお付き合いいただき、読者の皆様に、心より感謝申し上げます!
「第二章完結おめでとう!」「第三章が待ちきれない!」と思ってくださった方は、ぜひ作品ページ下の【ブックマーク登録】や【★★★★★評価】で応援していただけると、第三章執筆の最大のエネルギーになります!少し充電した上で、第三章を再開予定です。
それでは、さらにパワーアップして帰ってくる第三章でお会いしましょう!
本当にありがとうございました!




