第20話:影を穿つ脚、深山の疾風
碓氷峠の頂を抜け、黄昏時の濃霧が立ちこめる信州路へ――。
六区の走者として躍り出たお初は、弾丸のような疾走を続けていた。
胸元には、破れた着物の衿を隠すように結び直された浅葱色のたすき。
二の腕には千鶴が与えてくれた生薬の貼り薬が、じんじんと心地よい涼感を届けている。
(……宗吉さん)
脳裏に焼きついて離れないのは、血を流しながらも自分を庇い、「俺のことは気にせず行け!」と背中を押してくれたあの男の温もりだ。
(私のような裏切り者に、なんでそこまで真っ直ぐになれるのよ……。だからこそ――この走りだけは絶対に偽りにしない!)
前方を走る大手の飛脚問屋・嶋屋は、山登りのロスタイムを埋めるべく遥か先を行く。本道をそのまま走っていては到底追いつけない。
だが、お初は信州の深山を自らの領分とする忍びの身。
(……崖沿いの急勾配な獣道を使えば、軽井沢宿の手前で背中を捉えられる!)
お初は迷わず、並の人間では踏み込めぬ険しい抜け道へと身を躍らせた。
重力を味方に置き、骨盤の引き上げで着地衝撃を逃しながら駆け下りる。現代走法と真田流の身軽さが融合した足さばきは、凄まじい勢いで嶋屋との距離を縮めていく。
――だが、九十九折りを見下ろす崖の岩陰に差し掛かったその時!
ヒュンッ!
頭上から幾筋もの黒い影が舞い降り、路面へ大量の撒き菱が乱れ打たれた。
「……そこまでだ、八坂屋の小娘」
立ちふさがったのは、幕府の隠密・榊が放った刺客たち。嶋屋と裏で通じ、八坂屋を物理的に葬り去ろうとする冷酷な残党だ。
「嶋屋へ追いつかせはせん。ここでそのたすきごと首を落としてくれる!」
退路を断つように一斉に抜かれる白刃。絶体絶命の包囲網。だが、お初の瞳に迷いはなかった。
「ふふっ、甘く見ないで……お蘭さんの知恵を喰らいなさいッ!」
お初は胸元から竹筒を取り出し、火打ち石の火花を散らして敵陣の中心へ投げつけた!
ポンッ! と乾いた炸裂音とともに、視界を奪う強烈な閃光と濃厚な黒煙が広がった。
平賀源内の血を引く天才・お蘭特製の『からくり閃光煙幕弾』だ。
「ぐわっ!? 目が……! 前が見えん!」
「なんだこの煙は……ゴホッ!」
刺客たちが悶絶し、完全に動きを止める。
(今よ……ッ!)
お初はお蘭のからくり道具の威力を確信し、煙の隙間を縫って崖下へ躍り出た。このまま駆け抜ければ、追っては振り切れるはずだった。
――だが、安堵したその一瞬の隙を、刺客の頭領は見逃さなかった!
「……甘いわ、八坂屋の鼠がァッ!」
杉木立の暗がりに潜んでいた刺客が煙幕を迂回し、背後から殺意に満ちた小太刀を振り下ろしてきた!
「なっ……!?」
咄嗟にお初は腰の小刀を抜き、頭上からの白刃をギリギリで受け止めた!
キーーーンッ!
甲高い金属音が夜の山林に響き渡る。
だが――衝撃がお初の身体を貫いた瞬間、激痛が走った。
「くっ……あぁぁっ!?」
前の峠で負った腕の傷。千鶴の貼り薬で痛みを抑えていたものの、極限の爆走と敵の重い一撃により傷口が割れ、二の腕から一瞬で筋力が抜け落ちた!
指先が激しく痺れ、手から小刀が滑り落ちる。
ポロッ……チャリンッ!
小刀は無情にも崖下へと転がり落ちていった。丸腰となったお初は衝撃に耐えきれず、山道の土へ力なく膝をついてしまう。
「はははっ! 武器を失い膝をついたか! これで終わりだ!」
刺客は凶悪な笑みを浮かべ、小刀を肉薄させるように高く掲げ直す。
行き止まりの山道。武器はなく、負傷した身体では躍進して避けることもできない。絶体絶命の窮地へ、殺意の刃が一直線に振り下ろされる――!
(宗吉さん……! たすきが……!!)
お初が絶望に目を瞠った瞬間、冷たい刃のきらめきが視界を白く染め上げた――。
最後までお読みいただきありがとうございます。
お蘭のからくり煙幕で難を逃れたのも束の間、潜んでいた残党の奇襲により小刀を失い、絶体絶命の危機に瀕するお初!
八坂屋のたすきを背負う彼女に、逃げ道はあるのか――!?
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