†クルセイダー†(笑)
生徒会長が譜久山武紀に変わってから数日経った。広報で宣言した通り──いや、それ以上に譜久山は改革を進めていた。それこそ、校内の雰囲気が一変するくらいには。
湊叶の贔屓目もあるだろうが、光汰が生徒会長だった頃が晴天だとすれば、今は気の重くなりそうな分厚い雲に覆われた曇天だ。廊下には十字の紋章が描かれた臙脂色の腕章をつけた生徒会特別部門の面々が生徒たちにじろじろと睨めつけるような視線を送っている。
「空気悪いよねえ〜。生徒会長が変わるだけでこんなに空気って変わるんだね」
いつの間にか湊叶の横にしれっと座っていたいつひが呟く。昇降口の正面にある螺旋階段を登った先にある二階ホール、その壁際に設置されているベンチである。聞こえよがしに呟いたいつひに『十字』の腕章を付けた男子が無遠慮に近づいてきた。もちろん、厳しい表情だ。渋い顔をした湊叶に対し、いつひはどこか楽しそうにしている。男子の接近に気づかないふりをしたいつひは湊叶に視線を送りながら尚も続けた。
「腕章もわざわざ新しいの作ったのかなあ。変な思想で徒党を組む人たちって形から入るよねえ。ね、桜庭くん。すっごい厨二だよね! なんてったって『†クルセイダー†』だもん」
賀川のやつ、何としても巻き込むつもりだな。僅かにこめかみを痙攣させた湊叶は面倒そうに「そーだな」とだけ返した。譜久山が新しく組織した生徒会、いや生徒会長直属の実行部隊、『クルセイダー』。傲慢にも十字軍の名前を冠した彼らは、校内の秩序を乱した生徒を取り締まることを使命としており、授業以外の時間は校内を見回っている。クルセイダーに所属する生徒は、正式には生徒会には所属していない。譜久山からスカウトされた生徒が十字の腕章を授けられ、校内を自警団気取りで闊歩しているのだ。生徒会長直属の組織と表現したが、譜久山の私兵団と言った表現の方が近いかもしれない。
何にせよ湊叶的には──、非常に気に入らない。
いつひと湊叶の真正面に男子生徒が仁王立ちする格好になった。無言の圧力でも掛けているつもりなのだろうか。しばらく無視をしたあと、いつひが怪訝な表情を作って男子生徒を見上げた。角刈りの無骨そうな人物だ。
「何か用? 一年五組の黄蓮くん」
まあるい菖蒲色の瞳が黄蓮を見つめる。黄蓮はほんの僅かに視線を逸らすと、「それは俺の台詞なんだが」と表情を変えぬまま淡々と答えた。
「どゆことよ」
いつひのすっとぼけも止まらない。少し不機嫌そうな声色で黄蓮の出方を見る。とか言えば何だか策士のようだが単にからかっているだけだ。
「俺たちの噂話をしていたように思ったが」
いつひを見下ろす黄蓮の目が細まる。非難ではなく見定めようとしているような視線だ。
「噂話のつもりはなかったなあ」いつひが口先を尖らせながら言えば、黄蓮の瞳が下等なものを見るような色を帯びる。
「シンプル悪口だったから」
「訂正するところそこじゃなくねえか」
いつひの語尾を引っ掴むような勢いで湊叶がボソリと呟く。
「そこ以外に訂正するところないからこれで合ってるよ」
飄々と言ってのけるいつひを前に黄蓮は戸惑いの色を隠せずにいる。いつひの瞳が意地悪げにきらりと光ると「まっさか、悪口言ったくらいでとっちめたりしないよねえ? ましてや、無能力者のボクをさあ」と黄蓮に絡み始めた。黄蓮は大きく反応することはないものの、険しい表情のままいつひの前で仁王立ちを続けている。
いつひの相手をするのも疲弊しそうで避けたいが、ここで引き下がるのも逃げるようで選びたくない、と言ったところだろうか。湊叶は黄蓮をこそりと眇め見た。その視界の端に人影が映る。こちらに向かってきている。いつひもその姿を認め、目を瞬かせた。
屋内だというのに目深に学生帽を被り、学ランを肩に引っ掛けたスタイル──ほとんど半世紀前の番長スタイルの男子生徒が三人の元へ徐に近づいてきているではないか。いかついのは格好だけで、背丈は決して大きくはない。むしろ、一年生だとしても小さい部類だろう。いつひは湊叶とこっそり比べてみた。同じくらいだ。
いつひの視線に気がついた湊叶が「何だよ」と怪訝な視線を寄越してきたので、「桜庭くんってああいう……『漢気』? みたいなの好きそうだよね」と適当なことを返しておく。
背後の人間に心当たりがあるのか、肩をすくめた黄蓮の横に学生帽が並んだ。黄蓮は比較的がっしりした体型ということもあり、ますます学生帽の小ささが際立つ。しかし学生帽は堂々とした態度でいつひと湊叶をジロリと見る。やはり彼の腕には『クルセイダー』の腕章があった。
「時に正義とは理解されないものだな」
そうして学生帽が放った言葉がこれである。いつひは「いやもうそういう思想系勘弁なんですけど、一年三組山田くん。高校デビューのタイミング遅くない? この前までは普通の格好してたのに」と露骨に嫌そうな顔をして皮肉まで並べてみせた。自分の主義主張のために力を振りかざす者特有の面倒臭さと言ったら無い。これなら武藤くんの自身の快楽のためだけに暴力を振るう方が余程マシ──なわけがないのだが。どちらもろくでなしだ。
「……いや、思想に関しては山田がおかしいだけだ」
黄蓮がいつひと山田の間に立つ。その様子をじろじろと見たいつひは「仲良いの?」と首を傾げた。その問いかけに黄蓮は少し困ったように視線を彷徨わせる。そこに「やれやれ」とばかりに肩を竦めた山田が「ぼくが黄蓮のお守りをしているんだ」と胸を張った。
「絶対嘘じゃん。お守りしてる相手に『おかしい』って言われてるし」
「……思想がおかしいだけだ。他は、俺よりしっかりしている」
そろそろ飽きてきたいつひがスマホを操作しながら呟けば、山田に向けたはずの言葉に黄蓮が反駁してくる。
「そもそも『クルセイダー』やってる時点で思想おかしいでしょ。結構断られてるって聞いてるよ」
白い目を向けられた山田と黄蓮は顔を見合わせ、話し出したのは黄蓮だった。
「俺は思想なんてものはない。ただ、『クルセイダー』に入れば、自由に力を振るっていいと言われたから」
瞬間、黄蓮の身体が二重にぶれたような気がした。いつひがまばたきをする間に、黄蓮との間に湊叶が体を滑り込ませる。瞬間、湊叶の姿が消え、それを追いかけるように空気を震わせるような音がした。あ、と視線を音の方に移すと、ちょうど湊叶が壁に叩きつけられているところだった。
「ひょえ……」
空気の音のような短い悲鳴をあげたいつひの前にゆらりと影が立つ。黄蓮だ。無表情でいつひを見下ろしている。あ、やられる、といつひの背筋に冷たいものが走った。いつひの目では黄蓮が湊叶に何をしたのかさえ全く分からなかった。殴ったのか、蹴り飛ばしたのか、はたまた何かしらの能力か──。
「お前の!」
ビリ、と空気が震えるような大音声がいつひの後方から響いた。湊叶の声だ。黄蓮が動きを止める。ほとんど壁にめり込んでるのにそんな大声出せるのすごいな、と振り向いたいつひはよろめきながらも立ち上がった湊叶の気迫に圧倒されて言葉を失った。
「相手は俺がしてやるっつってんだよ!」
内臓も損傷したのだろう。血反吐を吐きながら湊叶は吠える。黄蓮は一瞬いつひに視線を送った後、「能力は使いたいけれど、殺人を犯したいわけじゃない」と困ったように眉を下げた顔で湊叶を見つめた。
「さっき桜庭くんにしたやつをボクにしたら四散して死んじゃうからやめた方がいいよ」
いつひは潤んだ瞳で黄蓮を見上げる。すると黄蓮はいつひを一瞥してから「便利なことに、俺の能力は出力調整が容易なんだ」と淡々と答え、再びいつひに狙いを定めるではないか。緊急時にだけ発揮できる驚異の瞬発力を発揮し、いつひは黄蓮から距離を取る。予想外の動きに目を瞬かせている黄蓮にいつひは目を剥きながら叫ぶ。
「はぁ〜?! ふざけんな武藤くん呼んだもんね!」
「そうするだろうと思ってクルセイダーのメンバーを集めているところだ!」
身を翻して走り去ろうとしているいつひの背中に山田の得意げな声が飛んでくる。
「そんなん武藤くんワンパンだし〜!」
あかんべをしながら振り返ったいつひは、ついでに黄蓮を観察する。いつひを追いかけるつもりはなさそうで、視線は湊叶の方に移動していた。桜庭くんには興味なさそうだったのに、といつひが黄蓮の視線を辿ると、その先の湊叶は自身の両腕に炎を灯していた。
「元生徒会が現生徒会に楯突くってわけかい」
大口を開けて豪胆に笑いながら山田が言う。ただし声が身体のサイズに対応していることもあり、迫力には少々欠ける。山田をちらりと見た黄蓮は「俺が全部やる」と短く言った。返事の代わりに山田は肩を竦めてみせた。
湊叶の正面に立った黄蓮は観察するような視線を送る。距離は四、五メートルほど。黄蓮の能力の射程外だ。しかし、それは湊叶にも同じことが言える。
ぺっ、と口に溜まった血を吐き捨てた湊叶は「つーか、俺二年なんだけど」と黄蓮に指先を突きつけた。
「二年だから、何だ?」
すっとぼけたわけでもなく、煽っているわけでもなく、純粋に理解できないといった様子の黄蓮に湊叶は大きな溜息を吐くと──「ちっとは敬えっつってんだよ!」と黄蓮に躍りかかった。
「『敬え』と自分から言ってくる人間に、ろくな人間はいない」
断じるように呟いた黄蓮は肩を竦めると、湊叶の攻撃を身を退いて回避する。ちりっ、と短い音と焦げた臭い。かなり大ぶりだが、腕に纏った炎で攻撃範囲がかなり広がっているのは厄介だ。
「でも、いいっすね。先輩の能力は人を暖めたり、調理にも使えるし。俺の能力は、人を殴るしか能がない」
二度目の攻撃を大きく跳んで避けた黄蓮はどこか物憂げに呟いた。湊叶は呆れたように眉を下げる。
「能力じゃなくてお前がノータリンなだけだろ」不快感を露わにした黄蓮に湊叶は畳み掛ける。「砕石場とかで役に立つだろーし、要は捉え方じゃねえの」
小さな頃、消防士になりたかったことを思い出した。それに特別大きな理由があるわけではなかった。赤色が好きだったから、消防車は憧れだったのと英語では“firefighter”と表現されるところも幼い湊叶にはポイントが高かった。炎と闘う人。
そうしたら、能力スクリーニング検査で「発火能力」があると判断された。
「……石を砕いたってつまらない」
「そう言うとこだろ」
湊叶がため息を吐き終わるが早いか、黄蓮が能力を乗せた拳を振るう──。回避が間に合うか、と見開かれた湊叶の視界を覆ったのは見覚えのある桃色だった。
「は──?」
小さな声を残して、湊叶の姿が消える。盛大に空振りをした拳を、黄蓮は不思議そうに見遣った。山田が「逃げたようだな。そんな芸当が出来るのは、由瀬通先輩か」と呟く。
「……詳しいな」
拳を解いた黄蓮が呟くと山田は少し呆れ気味に「由瀬先輩は知らない方がおかしいんじゃあないか?」と言い、ふと口を噤んだ。「生徒会長にスカウトされる前は、あまり学校に来ていなかったんだったか」
「ああ。つまらなかったから──」
不意に山田が誰もいないはずの後方に注意を向けたかと思うと、すぐさま能力を行使する。山田と黄蓮の周囲に筒状に張り巡らされたのは、ちょうどサッカーのゴールネットのような素材の網だった。そうして張られた網に見事飛び込んできたのは、人間だった。
「うおッ」
山田から飛び出したのは素直な驚嘆の声だ。何かが自分達の背後から飛んでくるのは分かったが、まさかここまで質量のある物体だとは思わなかった。まずい。糸の強度が足りない。
果たして、飛んできた人間は山田が創り出した網を引きちぎり、何の障害も無かったかのように突っ込んできた。予測していた山田は間一髪避けることが出来たが、黄蓮は能力の発動も間に合わず飛び込んできた人間と団子のようになって壁際へ転がっていく。
「チッ、スペア狙うか」
床に手をつき呆然としている山田の元に大きな人影がぐるぐると右肩を回しながら近づいていた。さっき人間を投擲した張本人であり、この現場へのクルセイダーの増援を頼む原因となった人物。ボーリングでもしているつもりだったのか、「もう球ないな」と少し残念そうに呟いている。
「……武藤か」
呼びかけられ、山田を見下ろした重光は「そーです、武藤くんです」と両の目を細めた。あまりに暴虐、我儘すぎる振る舞いに、強い星憑きを求めていた生徒会長の譜久山をして「あれは討伐対象」と言わしめた男は、自分を睨んでくる山田に向けてどこか愉しそうな顔を向けている。
「糸使い?」
「そういう武藤は、雷使いと聞いている」
「情報漏洩じゃねーか」
重光が山田の言葉に対し、そう呟いた瞬間である。山田は大きな衝撃を受けて、床に叩きつけられていた。これは殴られたのだろうか。混乱する山田はしかし動くことが出来ない。遅れてやってきた全身を苛む激痛にますます精神混乱は加速する。
「最低〜。こいつ口封じしとこ」
重光は山田の頬を指で挟み、口を開けさせた。重光の拳一撃を受けた山田の身体は弛緩しきっている。だらりと口端へ垂らされた舌を躊躇なく引っ張った重光は指先から僅かな電流を流し込んだ。山田の体が大きく跳ね、焦げ臭い匂いが広がる。小さな痙攣を始めた山田は口内から尋常ではない量の涎を流し始めた。
「汚〜い」
眉を顰めた重光は立ち上がると、山田から離れる。直後、先ほどまで重光の頭があった場所を大きな黒い影が飛んで行くではないか。それは重光がボーリングの球扱いしていたクルセイダーのメンバーであった。仲間であるはずの黄蓮にも吹っ飛ばされ、全くもって酷い災難である。
「俺のときの方がよく飛んでたな」
ふん、と何故か得意げにしてから、重光は射出元である黄蓮に目を向ける。目が合った。少し細めたテラコッタの双眸は重光を量るような目つきだ。重光はやはり悠然と構え、ニタリと笑って見せる。
「お前は何してくれるひと?」
「お前をぶっ潰すひとだよ」
重光の問いかけに淡々と答えた黄蓮は重光にその拳を向ける。あの舐めきった面、最大火力でぶん殴ってぐちゃぐちゃにしてやる。すると重光はますます愉しそうに目を細めて笑う。長い睫毛の隙間から覗く躑躅色の瞳にはどこか歪さが宿っているように思えた。とはいえ、この状況で山田の心配よりも先に来る感情が、能力を出し惜しみすることなく人間にぶつけられることへの喜びだった自分も十二分に歪だろう。
「頼むから死んでくれるなよ──」
言いながら黄蓮は重光の顔、ど真ん中目掛けて拳を振るう。重光は一瞬嫌そうに眉を寄せ「顔はやめろ」と短く呟くと、突っ込んでくる黄蓮の腕を払い上げる。腕を弾かれた黄蓮は全身のバランスを崩し、後方によろめいた。右手が大きく上がったため、つられた右足も爪先しか床に残っていない非常に不安定な姿勢だ。焦りが滲んだ黄蓮を覗き込むように少し体をかがめた重光は黄蓮の横っ腹に蹴りをお見舞いする。
吹き飛ぶ黄蓮、重光が「は? やっぱ口ばっかじゃねーかよ」と指を鳴らして不機嫌な声を上げた。先ほどまでの愉悦に満ちた笑みもすっかり消え去り、いつもの仏頂面である。
二、三回床をバウンドした後壁にぶつかり止まった黄蓮は、数秒動きを止めたもののすぐに跳ね起きると重光に向かって突っ込んできた。拳には異能の力を込め、その口端は僅かにだが愉しそうに上向きの弧を描いている。
重光の機嫌はますます悪くなる。喧嘩をしているとき、相手が楽しそうだと途端に萎えるのだ。そんな重光に拳を振るいながら黄蓮は話しかける。
「人間を殴る感触が大好きなんだ。お前もだろう?」
「仲間にしないでー。俺は──」
黄蓮のラッシュを(わざと)紙一重のところで避け続けていた重光だったが、不意に足元を取られ後方に仰反る。糸使いか、と理解すると同時、重光の右肩に黄蓮の拳が直撃した。
例えるなら、雨上がりの山で湿気た枝の束を踏み潰したときの音。繊維が千切れるような音も聞こえた。重光は僅かに表情を歪め、黄蓮を眇め見る。そこには興奮し上気した顔で重光を見つめる黄蓮の姿があった。殴り、骨と肉を潰した感触に心酔しているのか、目元はとろんと溶けたように焦点が合わず、動きも一気に鈍る。
「え〜〜、きも」
黄蓮の顎を狙い、重光はハイキックを繰り出す。大振りではあるものの鋭い攻撃を黄蓮は能力を乗せた拳を当てることで対応した。再び、先程のような音。足首の骨が砕けた。重光は目を見開く。殴られたわけではない。ほぼ触れられただけと言っていい。
「ああそうか別に殴らなくても、当てたら壊せるのか」
幸いだったのは黄蓮が自分の変化に能力に驚き、動きを止めたことだ。庇うように足を床に置いてみたが、僅かに体重をかけるだけで脂汗の滲みそうな痛みに襲われる。骨が変なふうにくっついて、形が悪くなったらワサビさんは嫌な顔をするだろうな、と重光は黄蓮を睨みつけた。
「ありがとう、武藤。これは追い込まれなければ生まれなかった進化だ」
興奮も最高潮に達したのか、呼吸も荒い。重光は「キモい、マジで」と吐き捨てるように言うと、前屈みの姿勢になっている黄蓮の元へ猛然と向かう。使い物にならない左足を庇いながらとはとても思えない。
「壊されにきてくれたのか」
嬉しそうに迎える黄蓮。両手を左右に広げ、身体を起こしたため元気になった下腹部が顕になる。よし、ボキボキに折ってやるか、と目標を決めた重光の足元に再び何か──山田の糸だ──が引っかかる。粉砕された左足で踏ん張ることも叶わず、重光は先程よりも大きく体勢を崩した。
山田にしてみれば、黄蓮の手助けをしたつもりだったのだろう。ただ、タイミングが悪かった。黄蓮は完全に重光を迎え討つつもりだった、だから飛び込んでくる重光に合わせて拳を突き出した。しかし不意に重光は黄蓮の拳の軌道上から姿を消す。
つまり、それは黄蓮は拳を伸ばし切った間抜けな姿勢を重光の前に晒すということだ。
その事実を悟った瞬間、黄蓮の背中にドッと嫌な汗が溢れる。黄蓮が視線を下に移すと、血の色のような躑躅色と目が合った。視界が躑躅色に染まる。
伸ばし切った腕の手首を鷲掴みにされた。黄蓮が息を呑む暇もなく、小枝をへし折る程度の気軽さで重光は黄蓮の手首を潰した。皮膚の破れる音がして、尺骨が飛び出す。
「あ゛、あ」
この惨劇が自分の身体で起きていることだと信じたくない、とでも言うように黄蓮は悲鳴を溢し、膝から頽れた。開放骨折した腕を庇うように四つん這いになった黄蓮の顎を重光は蹴り上げる。短い悲鳴を漏らして仰向けに転がった黄蓮の下腹部目掛けて、重光は靴底を踏み下ろす。軸足に骨が折れた方を使っているため、体重の半分を掛けたくらいだが踵を使ったので急所への攻撃としては十分な圧力が掛かった。
もはや悲鳴にすら聞こえない異様な大声を響き渡らせたかと思うと、黄蓮は黒目をぐるりと上転させて気を失ってしまった。半開きになった口からはだらりと舌が垂れ下がり、哀れの一言である。少し楽しそうに黄蓮の写真を撮った重光はくるりと身体を山田に向けた。
「俺、別に殴ったときの感触とかは割とどーでもいーんだけどさ」うつ伏せになっている山田からの反応はないが、気にしていない様子で重光は続けた。「情けねー顔見たり声聞いたりすんのが好き」
とはいえ、やはり山田はぴくりとも動かない。重光は寸の間反応を待つような素振りをした後、「シカトうぜ〜」と唐突に不機嫌を顕わにする。山田に向かって大股で踏み出した重光の腕を背後から駆けてきた人物がパッと掴んだ。体の一部を軽く掴まれただけのはずなのに、全身の動きを止めさせるような妙な力の入れ方をしてくる人間を、重光はただの一人しか知らない。
羽澄光汰だ。
「武藤、これは一体」
「知らねー、喧嘩売ってきたのこいつら」
問いかけに答えながら光汰の手を振り払う。光汰はわざとらしく「おっと」と呟いていたが、振り払われてくれたことは分かる。どういうつもりでそんな小芝居をするのかは不明だが、このことを問い詰めようとしても光汰は本気で不思議そうな顔をして「不快にさせてしまったなら、すまない」と心から申し訳なさそうにするだけで、重光の苛々は余計に募るばかりだということは自明だ。
「むっ! 武藤も酷い怪我じゃあないか! 救急車を──」
「うるさい黙れ何処の馬の骨か分かんねー医者なんかお断りでーす」
重光の状況に気がつき騒ぎ出した光汰に迷惑そうな視線を送る。
「そんなことを言ってる場合じゃ──」
「ここへリポートあったよな」
「ん? ああ、グラウンドが緊急離着陸場所として登録されている」
重光の唐突な質問に光汰が答えると同時くらいのタイミングで校内放送が入った。グラウンドにヘリコプターが着陸するので現在グラウンド付近にいる職員、生徒は屋内に退避し、近づかないように、と。
「まさか」
声を上擦らせた光汰はグラウンドが見える窓に駆け寄ると外を確認する。間もなく、轟音と共にヘリコプターが砂を巻き上げながら龍行高校のグラウンドに着陸した。
光汰は重光を振り返ると「武藤が……?」と尋ねる。重光は頷くと「お前はどっか行ってた方がいーよ」と目を細め、口元に上向きの弧を描いた。その態度を不思議に思った光汰が首を傾げて「どうしてだい?」と尋ねた声は、重光から一番近い窓が外から破られる音によって掻き消される。
重光を守ろうと動いた光汰だったが、眉間に銃口を突きつけられ動きを止めた。息を呑んだ光汰が両手を上げながら瞳を動かして周囲を観察する。タクティカルジャケットに身を包んだ機動部隊があっという間にホールに展開し、場を制圧しているではないか。
一人涼しい顔をしているのは重光である。その横にはこれまたいつの間にか男性が寄り添うように立っていた。その顔付きや佇まいは重光に似ている、というかそっくりである。重光の父親、だろうか。
「も〜〜っ、重光ちゃん、無茶はしないでって何度も言ってるのに!」
男性の様子に正直度肝を抜かれた光汰だったが、愛の形は人それぞれだし、重光だって嫌そうには見えないから、そう言うものなのだろう、と納得する。
それから、あ、と光汰は口の中で呟く。先ほどの重光の不思議な態度に合点が行ったのだ。
相思相愛の親子と言えども、思春期の男子だったらこのような場面を他人に見られるのは少し恥ずかしいものだろう。だから照れ隠しで「どこかに行った方がいい」と言ったのだ。合点が行った光汰は銃口を突きつけている機動隊員に「ええと、俺は武藤にここから立ち去るように言われたんだ」とおずおずと話しかける。
機動隊員はアイコンタクトとハンドサインで重光の意思を確認するよう他の隊員に伝えたようだった。しばらくして解放された光汰は静かに息を大きく吐く。機動隊員は早く立ち去れと大きく手を振ってくる。全く我が物顔である。
まさに武藤家、だな、と光汰は肩を竦めた。その背中に、重光の父親、修輔からの酷く冷ややかな視線が注がれていたことには全く気がつかないままだった。
光汰が立ち去ったあと、いかにもパラメディック然とした隊員が数人駆け寄ってくると重光の周りで陣を敷き始めた。重光が「流石に大袈裟ー」と呟くも「何言ってるの!」と修輔に一蹴される。
「こんな危険な星憑きを放置してるなんてどうなってるのかしら! あとで意見入れておきましょ」
ぶつぶつと呟く修輔の横で重光の口には吸入麻酔用のマスクが着けられる。毒に強いから、薬にも強いんだけど、と重光は頭の奥でぼんやりと思った。




