第4話 中宮・祥子
「……ということがあってね。しばらく、あなたに逢いに来られなかったのだよ」
俺が人間に変身できるようになってから三日経ったお天気のいい午後。秋の日がうらうらと射す、弘徽殿のお庭が見える部屋で。さちこのたおやかな細い手をぎゅっと握りながら、主上は片目をつぶってみせた。
華奢で小柄な体つきに小作りな顔立ち。主上よりも四つ年上のさちこは愛らしい笑い声をあげると、夫に握られていないほうの手で、俺の頭を撫でながら言った。
「この愛らしい白猫が化け猫に? 主上ったら御冗談がお好きだこと!」
「本当だよ、祥子。ヒトになった姿をあなたにも見せたいほどだが……雄猫だからね。あなたの房に入れるとなると。嫉妬で私の胸が焼け焦げるかもしれない」
「まあ、どちらへの嫉妬でしょうか?」
さちこが主上の引直衣の胸へと軽くもたれたので。俺は「にゃおん」と一声あいさつをすると、主上の膝の上から降りた。でないと、また、さちこの女房が目を吊り上がらせて「姫様の逢瀬のお邪魔をするんじゃございません」って、俺のことを庭先につまみ出すかもしれない。
代わりに。さちこそっくりな少年が所在なげに座っていたので、俺は尻尾をぴんと立ててその子のそばへと行き、浅い緋色の闕腋袍に覆われた膝にすりすりしてやることにした。
「え、どうしよう。来ちゃったよ……うわっ。ふわふわだ」
少年はぱっちりとした目を見開いたけれど、その声はどこか嬉しげだ。
この子はさちこの弟だ。たしか、十四歳だっけ? さちこのお父さんと一緒にときどき来るから、きっと甘えんぼうなんだ。俺は目が開いた頃には一匹ぼっちだったけれど、もっと小さい頃に他の毛玉みたいなきょうだいと身体をくっつけあってたことは何となく覚えているよ。
お姉ちゃんが主上といちゃいちゃしてたら、寂しい気分になるだろうな。俺だって今、主上を見ていて、なんだか困った気分だもの。
よし。
俺は「んにゃにゃにゃっ」と叫ぶと、少年の袍に覆われた膝に飛び乗って丸くなった。
「あらまあ、昌高。すっかり御猫に気に入られちゃったわね」
「ははは、藤少将。撫でてもいいよ」
仲睦まじく寄り添い合う夫婦がにこやかにそう言うと。まさたかは俺の背中をおっかなびっくり撫で始める。
「すごい……。なんて滑らかな手触り。癒される……ねえ、御猫さま。お名前は?」
にゃあ、と俺が鳴くと。さちこがくすくす笑いながら言った。
「『にゃあさま』とおっしゃるのですよ。昌高。」
「にゃあ……さま?」
昌高は虚を突かれたみたいに黙ったが、やがて「あははは!」と快活に笑い始めた。
「君、にゃあさまなのか! にゃあさま。頭を撫でてもいい? 痛くない?」
ああ、俺の耳が無いから心配してくれているのか。俺は「にゃおん」と一鳴きすると、少年の手に自分から頭をぐりぐりと押し付けた。すると、昌高がニコニコで俺の頭を撫でてくれる。
「お耳のあった場所にほんの少しだけ、でっぱりがあるんだね。傷が塞がって良かったね、にゃあさま。可愛いなあ……」
その言葉に。主上はふうっとため息をつくと、さちこの腰を抱き寄せた。
「にゃあの耳が落ちたときは、私も生きた心地がしなかったよ。だから、この三日ほどもそばを離れる気になれなかったんだ。きっと、あなたにはずいぶん不安な思いをさせてしまっただろうね」
「いいえ。あなたさまが麗景殿にもお渡りになっていないのは、渡殿の様子からも分かっておりましたから。清涼殿で何かあったのかしら、と案じておりましたわ」
年下の夫の胸にもたれる小柄な女性の言葉に。主上の指が中宮の小袿にぐいっと食い込んだ。
「こんな可愛いことを私に言ってくれる女性はあなただけだね」
「どうかしら? この国のどんな花をも手折れる御方」
「だからこそさ。私が手折りたい花は、この弘徽殿にしか咲いていないよ」
どうなんだろ? こないだは「さちこには悪いけど、にゃあを抱っこして清涼殿で気楽な夜を過ごしたいよぉ」なんて俺を吸いながら叫んで、志摩に叱られていなかったっけ?
たぶんだけど、主上はさちこや麗景殿の化け物女に気を使いすぎているのだ。だから、「また麗景殿だよ、はぁ」だの言いながら交尾に通う羽目になるのだ。
なんにしろ。こんなの眺めていたって仕方がないな。
「にゃおん」と言ってまさたかの膝から飛び降りると。俺は尻尾をぴんと立て、数歩歩いては立ち止まって、まさたかの顔を見上げながら「にゃーお」と鳴いた。
「あ、あの? にゃあさま?」
「あはは、藤少将。にゃあが遊ぼう、って」
「そ、そうなのですか?」
大当たり。さすが飼い主だね。主上はよく俺のことを分かっているよ。
さちこのところには、確か毬があったはず。さちこのお父さんの左大臣は、お昼間に主上がお出ましになったときのために俺とさちこが一緒に遊べるおもちゃをいくつか用意してくれたのだ。さちこは優しいから、俺だけが来たときも毬を転がしたり猫じゃらしを振ったりしてくれる。
えっとね……たしかこの几帳の裏。ここの唐櫃の上に毬が置いてあったと思うんだ。
あれ?
目当ての毬はあったけれど。そんなことより、唐櫃の脚の下に何か白くて平べったくて変な感じのするものが見える。
「にゃにゃ?」
一瞬も迷うことなく。俺は前足を唐櫃の下へと突っ込んだ。だって、俺、猫だから。分かんないものをそのままにしたら、気になってお昼寝だってできなくなっちゃうもの。
幸い、唐櫃の脚の高さは俺の前足がなんとか入る隙間を作っていて。俺の肉球はすぐにその謎の物体を引っ張り出すことに成功した。
何にゃ、これは?
ひとの形をした白い紙。なにかおまじないみたいなことが墨で書いてあって。よくわかんないけど、なんだか誰かの「かなしい、こいしい、くやしい」みたいな気持ちがぎゅっとこもっている。
うっわー、こんなの、さちこの荷物置き場に置いておいたらだめだよっ。
そうだ、前に芥虫を捕まえたんで志摩に見せたら、「そんな穢らわしいもの、お庭にでも捨ててきなさいっ」って金切り声をあげられたんだ。この紙人形だって穢らわしさでは負けちゃいないから。これもお庭に捨てたら良いよねっ。
だけど、どうやって? こんなの口に咥えたくもないよ。
しょうがないな。ふわふわの毛皮で覆われた手で。俺は紙人形をパシッと几帳の下から叩き出した。このまま紙の人形を前足でペシペシとやりながら進んでいって、簀子縁から庭に弾き出してやるとしよう。
俺が几帳の裏から飛び出して、紙人形をシュバッと叩き飛ばすと、まさたかが俺のことを追ってきたところだった。
「おや? にゃあさま。何か見つけたのかい?」
ちょうどいいや。俺はこの子と蹴鞠ごっこをするつもりだったのだから。毬の代わりに人形を蹴飛ばせばいい。
「んにゃっ(まさたか、あそぼっ)」
俺がそう言って前足で紙人形を示すと。さっきまでニコニコしていたまさたかの表情が急にこわばった。俺が口に咥えるのもためらう人形をさっと拾い上げると。まさたかは主上のところへと歩幅広く戻っていき、武官らしく礼を取る。
「主上、中宮さま。恐れ入りますが、こちらに陰陽師を呼んでもよろしいでしょうか?」
「まあ、陰陽師ですって?」
「どうした、藤少将。改まって」
主上がさちこの腰を抱いたまま、少し真顔になって問いかけると。まさたかは青ざめた顔のまま、俺が蹴飛ばしていた紙人形を差し出した。
「にゃあさまがあの几帳の裏からこれをご発見なさいました。呪詛の……人形でございまする!」
闕腋袍:
武官用の袍。脇が縫われていないので動きやすい。
藤少将:
まさたかの本名は藤原昌高です。




