第2話 薬石効なく、加持祈祷も虚しく
畳の上へと、ぼたり、ぼたりと落ちた俺の耳を目にして。女の童が「きゃあああっ」と大きな悲鳴をあげた。
それと同時に、志摩がキッと帝をにらみながら、金切り声をあげる。
「だからお止めしたんです、主上! 母方の亡き祖父の任地の海女たちは『猫に鮑を食べさせたら耳が落ちる』と古来より言い伝えているのですよ!」
「さっき、そこまでの話はしていなかっただろう、志摩!? ああ、可哀想に。にゃあ、痛くないか? この耳、くっつくかなぁ」
主上はおろおろとしつつも、もげた耳を俺の頭へと押し付けた。それがくすぐったくって。俺は「にゃおん」と鳴く。
「そんなことでくっつくものですか!」
「だったら、どうするのだ? そうだ、医者だ! 医者を呼び、僧に加持祈祷をさせよ!」
「あやめ! 典薬寮に行って、お医者様を呼んでおいでっ!」
あやめと呼ばれた女の童は、転がるみたいにして清涼殿の外へと走り去っていった。
ふうん? 俺の耳、もげちゃったんだ。まあ、いいや。別に痛くもないし、これからお医者さんかお坊さんがくっつけてくれるみたいだし。
そんなことよりも、まだお皿の上にあわびが残ってるんだけど。俺は主上の顔を見上げて甘え鳴きしてみせた。
「にゃおん?」
「お、おい、痛くないのかっ? にゃあ?」
「にゃん(ぜんぜん)♪」
主上は腰を抜かして座り込んでいる。やれやれ、しょうがないにゃあ。俺は懸盤の上に前足を載せると、銀皿へと顔を突っ込んだ。
「これっ、にゃあ様! 猫が主上の御膳に手を載せるものではありませんっ」
「そんなことよりも! 手足まで落ちたらどうするんだ、にゃあ!」
典侍と帝がそろって騒ぐ中。さきほどの女の童が緑の袍を着た衣冠姿のひげのおじさんを連れて戻ってきた。
「主上、典薬博士の和気幸道さまをお連れいたしました」
「おお、幸道ならば!」
主上は安心したように叫んだ。うん、このおじさんならよく見るよ。前に主上が風邪を引いたときに呼ばれてきていた。俺が前に鼻水が止まらなくなったときも、苦い薬を飲まされたからよく覚えてる。
あのときはさんざん引っ掻いてやったものだけどね。鼻水はすぐに止まったな……。
ひげのおじさんは俺の顔を見た瞬間、「あなや!」と叫ぶと、縮れ毛の女房に向かって言った。
「志摩どの。御猫をわが膝に乗せてお耳を拝見してもよろしいか、主上にお伺いいただけますかな?」
「ええ」
医師に向かって頷いた志摩が主上に耳打ちすると、十八歳の帝は「よろしい」と頷く。
すると。ひげのおじさんは肉厚な手をおっかなびっくり俺のほうへと差し伸べてきた。
「ほら、にゃあさま。おじさんのお膝においで? これこれ、怖い爪をお出しになるのではありませんよ。苦いおくすりも持ってきてないし、痛いこともいたしません。ほんの少しだけ、おくすりをぬりぬりするだけですから……ね?」
嘘だ。前の時だってそう言って、俺の唇をそのぶっとい指で、いーって開けて、キバの間からマズい薬を流し込んだくせに!
「んにゃにゃっ」
俺はおじさんの手から逃れようとしたが、志摩がものすごい顔で俺のことをにらんでいたので、大人しく和気の膝に乗ることにした。もしも俺がまたこの医者をひっかいたら、明日の朝ごはんを貰えなくなるかもしれない。
「どれ、お耳を拝見……おや?」
ひげのおじさんは俺の耳があったあたりの毛皮をかき分けていたが、すぐに怪訝そうな表情を浮かべながら志摩のほうへと顔を向けた。
「あの、典侍どの。お取次ぎを」
「幸道ならいいよ。直接、朕に申せ」
十八歳の帝が焦れたようにそう言うと。典薬博士がかしこまって申し上げる。
「はっ。その……にゃあ様のお耳ですが。完全に傷が塞がっているというか。患部には一滴の血も膿もないどころか、すでに健康な皮膚が張り、真白な産毛までもが生えております」
「と、いうことは?」
「はい。一応、お薬はお塗りしましたが、もはや治療の余地も必要もございませぬ」
典薬博士がそう奏上するや。主上が絶叫した。
「だが! あの、ひこひこ動く桃色の三角の耳がもう見られぬというのか? それに! 耳がなければ何も聞こえないだろう?」
すると。志摩がケフンと咳払いをした。
「にゃあ様。晩の御膳には、蒸してほぐして骨もすべてお取りした鮎をご用意いたしました」
「にゃおん♡」
俺が典薬博士の膝から飛び降りて、志摩の袴に身体をすりつけはじめると。志摩は俺の耳無し頭をナデナデしながら、男どもに向かって勝ち誇ったように言った。
「お耳は聞こえていらっしゃるご様子ですわよ?」
「取れたのは外耳だけですからな。聴力には支障がないと見えます」
「むむむ……だが……」
女房と博士の言葉に主上がうめいていると。さっきの女の童がまた駆け込んできて奏上した。
「僧正弘照さまをお連れいたしました!」
「おお! 弘照どのならば!」
帝が叫ぶと。いつもにこやかなおじいさん僧侶はずいずいと部屋へと上がってきて、俺のことをひょいと抱き上げた。
「なんとなんと! おお、可哀想に! そこに落ちている和毛の生えた愛らしい三角はそなたのものか。この弘照、仏に祈ってしんぜよう」
高僧は裾をかっさばいて坐すと、俺のことをあぐらの上に乗せた。すると、お付きの小坊主たちが香炉や太鼓、銅鑼に鈴をその前に並べる。坊さんは香炉にドバッと粉みたいなものをぶちこむと、大音声でお経をがなり始めた。それに合わせて小坊主どもが太鼓と銅鑼と鈴をドンドンジャンジャンリンリン鳴らしている。
「け、煙い上にうるさいっ。よろしいのですか、志摩さま。主上の御前でこんなっ」
「しーっ。弘照さまは先先々帝のお孫さまなの。主上でも強くは出られないのです」
女の童と女房がぶつくさ言ってるところを見ると、誰もこれ、止めてくれないってことなの? 「んにゃにゃにゃっ」と叫んで逃げようとすると、老人の力強い手が俺の首根っこを捕まえて膝へと戻した。
「大人しくしなさい、帝の御猫や。すぐにこの弘照がそちの耳を戻してやろう」
僧侶の読経の声はますます大きくなり、小坊主たちの鳴り物もますます激しくなっていって。だけど。坊さんのお膝、暖かい。だんだん眠くなってきたにゃあ……。
「喝!」
「にゃにゃっ!」
いきなり坊さんがバカ声を張り上げたので。とろとろ眠っていた俺は膝から飛び跳ねた。
「おや。まだ耳が生えぬのか」
「僧正の祈祷でもだめ、医師もさじを投げた。どうしたものか」
「そもそも、安倍啓明さまが熨斗鮑などお持ちになったのがいけないのですわ!」
きいィと怒る志摩の肩を僧正が抱く。
「まあまあ、志摩や。にゃあは元気そうではないか」
「そうですよ。傷も無い、聴力にも異常はございませぬ」
「にゃあは丸顔だしね。耳が無いのも可愛らしいじゃないか」
主上が笑顔でそうおっしゃって。その場は解散となった。それからすぐに夕ごはんの時間になって。俺は鮎の蒸したのをたんともらったあと、夜御殿へと向かう主上のあとを尻尾をぴんと立ててついていく。
主上の夜の御座所は塗籠っていって、周りをぐるりと壁で囲んだ狭い場所でね。俺、落ち着くから好きなんだ。
御帳台の中へとくぐり入り、綿の入った錦の茵の上に寝転ぶと。主上は衾をめくって、俺のことを招き入れた。
「ああ、久々だ。いいねえ。なんの気遣いもなく猫と眠る夜は」
その声は、なんだかとても疲れているみたいで。俺は主上のことをなぐさめたくなって返事をする。
「うんっ。おかみのおふとん、ぬくぬく。おれ、おかみ、だいすき!」
あれ? 俺の声、いつもと違う。まるで人間のことばみたい。それに? 俺の身体、なんだか大きくなってる!?
「にゃあ! お前、人間になったのかい!?」
「んにゃっ? おかみ! おれ、にんげんなの!?」
ほ、ホントだっ。俺の手から肉球が消えてるっ。どういうことっ?
「か、可愛いっ。あとにも先にもこんな綺麗な子、見たことがないっ。だけど……おい、志摩! 志摩はいるか! にゃあ、とりあえずこれを!」
主上が絶叫しながら衾を俺の身体にばさりとかぶせたと同時に。ぱたぱたと人々が走ってくる足音が聞こえてきた。




