第1話 帝の御猫
ようこそのお運びをありがとうございます。
いずれの御時にか、すぐれて時めきたまふ丸顔の御猫ありけり。名は「にゃあ」といふ――。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
その日の午後も。俺は飼い主の膝の上で昼寝をしていた。
俺の主は十八歳の男だ。周りの人間たちからは「主上」と呼ばれている。綺麗な着物を何枚も重ね着した女房たちにかしずかれているし、立派な格好をしたオヤジどもがへりくだって話をするのを聞いてやっては「ならば、そうせよ」「この点が気になる、再考せよ」」と相談に乗ってやったりしているので、きっとエライのだろう。
おかげで俺も。物心ついた頃には「帝の御猫」と呼ばれて、毎日、あわびの貝のお皿に乗った雉肉と、主と同じ銀のお椀に入った乳粥を貰っているよ。
だけど。「にゃあ様の毛並みは真っ白でつやつやなんですから! ちゃんと、とかさないと!」って、クシを持った女房に追いかけ回されるのだけは納得いかない。おまけになぁ……毎日、雉肉と乳粥じゃあ。ちょっと飽きたにゃあ……。
「……では、今夜は麗景殿にはお渡りにならないのですか?」
「あの子とは三日夜餅を今朝食べたばかりだよ。当分は行かなくていいでしょ」
主上は俺の背中を撫でながら、苦笑交じりに言った。昨日の晩もその前の晩も「今から麗景殿だよぉ、はぁ……」なんてため息をつきながら俺の背中を吸っていたから、きっと、あそこに来た女は化け物に違いない。
俺はね。まだ生まれて半年くらいみたい。だからまだ、主上のすまいの清涼殿と、さちこのいる弘徽殿しか探検してないの。だけど、ニョーゴっていう化け物女がいるのなら、今度、麗景殿にも行かなくちゃにゃあ。
「では、今宵は弘徽殿に?」
「ん……その方がいいかね、志摩?」
俺の頭を撫でながら主上がそう言うと。縮れ毛の女房は真顔で頷いた。
「わたくしが申し上げるべきことではございません。ですが、中宮さまはさぞお喜びになることでしょうね?」
「この三日間、彼女にはずいぶんと不安な思いをさせてしまっただろうからね」
その言葉と一緒に、飼い主のため息が降ってきて。秀麗な鼻が俺の脳天に押しつけられる、いつもの感触がした。
「んにゃっ?」
「おお、ごめんよ、にゃあや。お前の頭はお日様の匂いだね。私が仕事している間、日向ぼっこをしたのかい? はぁ、癒されるなぁ」
主上はふがふがと俺の頭を吸いながら、甘ったるい声で言葉を続けた。
「この和毛の生えた桃色の耳の愛らしいこと! 唇でついばんでみたいよ。あああ、祥子には申し訳ないけれど。今夜は、にゃあを抱っこして清涼殿で気楽に眠りたいなぁ」
「にゃあん」
さちこのところへは行かないのか。それはいい。あちらの女房は御帳台から俺のことをつまみ出すもので。
だが。縮れ毛の志摩は低い声で言った。
「主上。中宮さまも麗景殿の女御さまも、あなたさまのことをお待ちでいらっしゃるのですよ?」
「ああ、分かってるよ……ねえ、志摩! そういえばさ、昼過ぎに啓明がお祝いに熨斗鮑を持ってきたよね?」
「安倍啓明様? ああ、そうでしたわね。呪符と一緒に」
志摩がハッとしたみたいに答えると。俺の耳がピクッと動いた。
のしあわび? あわびって、主上やエラソーなおやじたちが宴会でよく食べてるアレだよね? 俺の綺麗なごはん皿の中身なんだ、って縮れ毛の志摩が前に言ってた。ひろあきっていう占いのお兄さんがお昼間に持ってきたペラペラした橘色のぶ厚い紙みたいなあれ! そういや、美味そうな匂いがすると思ったけれど、あれってあわびなんだ!
うわっ。こうなったら寝てる場合じゃないぞ。
さっきまで大きな手で背中を撫でられて、うとうとしてたけれど。俺はパチリと目を開くと、十八歳の飼い主の顔を見上げて「にゃーあ」と一声鳴いた。すると、主上がニコニコと俺の目を見つめ返す。
「にゃあの目はまるで琥珀のように綺麗だなあ……ねえ、志摩。アレ、持ってきてよ。熨斗鮑」
「まだ日が沈んでおりませんが。お酒と一緒に?」
「もう夕方だよ。だけど、ちょっとつまむだけ」
主上が茶目っ気たっぷりに縮れ毛の女房のことを拝んで見せると。志摩は「少しお待ちくださいませ」と俺らの前から下がってしまい、しばらくすると、つまみやすい大きさに切りそろえられた熨斗鮑を銀の皿に載せて持ってきた。
「はい、どうぞ」
女の童が帝の前に据えた懸盤(四つ足の御膳)の上に、銀の皿が置かれるやいなや。俺は喉を鳴らしながら、飼い主の顔を見上げることにする。
「ねーう、ごろごろ、にゃあ?」
「おお、よしよし。にゃあも食べたいのか」
「にゃおん!」
俺が勢いよく鳴くと。主上は手ずから、俺の口へと平べったいあわびを運んでくれた。
「主上! 猫に鮑をあげてはいけませんわ!」
「なあに。塩気はあるけど、ほんの少しくらい、いいじゃないか」
「ですが。わたくしの母方の祖父の任地での言い伝えでは……」
志摩がぐちゃぐちゃ言う間にも。俺は「にゃあ? ごろごろ、にゃあ?」と甘え鳴きをしながら、あわびを口に頬張った。
うん、すごいうま味だな。これが貝の味なの? 硬いから唾液でふやかして……ほんのちょっぴりだもの。よく味わなくっちゃ。あれ? 俺の舌、ざりざりしているから、もう削れて呑み込んじゃったぞ。ねえ、もっと!
「にゃーお、ごろごろ、にゃっ?」
「なんだ、にゃあ、気に入ったのか? もう一切れやろう」
「んもうっ! 主上ったら、だめですわ、猫の身体に鮑は毒……」
年若い帝をたしなめる縮れ毛の女房の賢そうな顔が「ひっ」という悲鳴とともに引きつった。その長い指は、俺のことをまっすぐに指さしている。
「ん? どうした、志摩……って、おい、にゃあ!」
「にゃあ様の……帝の御猫のお耳がぁっ!」
主上ばかりか、さっき懸盤を持ってきてくれた女の童までが悲鳴をあげ始めた。
なに、俺の耳がどうしたって?
さっき主上が再び口に入れてくれたあわびをもぐもぐごっくんすると。俺は少しだけ満足して、前足で顔をこしこし洗うことにした。
うーん、あわびってさぁ。美味いんだけど硬いばっかりで。やっぱり、ふかふかに蒸した雉のもも肉の方が俺は好きだにゃあ……。
ん?
桃色の肉球のついた手で目の横から鼻にかけてこすったあと。耳裏を洗いかけた俺の手がぴたりと止まった。
耳がない。俺の頭に耳がない。あるのは、のしあわび程度のぶ厚さの、ほんのわずかな出っ張りだけ。それだって、俺の毛皮に隠れる程度。
「んにゃ!?」
俺が思わず主上の膝の上から飛び起きると。ぼたり、ぼたりと音がして。
裏面は滑らかな白い毛皮に覆われ、表面には白い産毛が生えた桃色の薄い皮膚。三角形の俺の耳がふたつ、主上のおわす畳の上へと落ちてきた。
三日夜餅:男性が女性のところに三夜通ったあと、ふたりで女の歳の数だけ餅を食べること。結婚成立の儀式。
御帳台:皇后の寝所。帳が張り巡らされている。
占いのお兄さん:たぶん陰陽博士。
懸盤:四つ足のついた最高級の御膳。




