第8話:折り紙の宇宙と、開かないボトル(魔改造テストワープ)
「テストワープ、カウントダウン開始まであと十秒。……同期PATH、オールグリーンです」
サブシートのアミィの、落ち着いた声がブリッジに響く。
魔改造の手によって、アーク・クラスの推進システムは旧時代の面影を残しつつも、ルナ・セクターの最新理論が組み込まれた『異形のエンジン』へと変貌を遂げていた。
「いい、レインスト。超空間の折り畳み境界は極めて流動的よ。私の弾き出す『絶対座標』からコンマ一フェムトでもズレれば、私たちは次元の隙間に潰されるわ」
コンソールを睨むナナの表情は冷徹そのものだ。
だが、その指先はわずかに震えている。一・三秒のラグを力技でねじ伏せた先ほどの超演算による脳の疲労は、確実に彼女の体を蝕んでいた。
「ビビってんのか、お嬢様。お前が宇宙を折り畳んでみせりゃあ、俺がそのシワを綺麗に踏み越えてやる。……跳ぶぞ!」
レインストが無骨な手でレバーを押し下げる。
ナナの脳内絶対座標が、コンソールを通じて異形のエンジンへと直結された。
シュン、とブリッジの照明がすべて消え、完全な暗黒が訪れる。
次の瞬間、アーク・クラスは宇宙の『折り目』を滑り落ちるように、空間を跳躍した。
重力も、光も、時間すらも歪む一瞬。
レインストの手が、ナナの手を強く包み込んで固定していた。理論と現実が、その手の熱を通じて完全にシンクロする。
パッ、とブリッジに再び灯りが灯った。
フロントモニターに映し出されたのは、先ほどまでいた地球軌道上ではない。はるか遠方、木星の巨大な大赤斑が、窓の外で不気味に渦巻いていた。
「テストワープ……成功! 目標座標との誤差、ゼロ! 船体ダメージもありません!」
アミィが歓声を上げる。
ナナの弾き出した数式を、レインストの魔改造された装甲と操縦が完璧に具現化してみせたのだ。
「ふん……。私の計算が正しいのは当然よ」
ナナはツンと顎を引き、わざとらしく胸を張った。
だが、その顔はどことなく青白い。
「おいおい、お嬢様。強がりはそこまでにしとけ。脳ミソ使いすぎてパンクしてんだろ。今日はもう個室に引っ込んで休め」
「……っ、そんなことないわ。私はまだ——」
「命令だ、監査官様。お前が倒れたら、この船の羅針盤が消えるんだよ」
無骨だが、有無を言わせないレインストの言葉に、ナナは一瞬だけ唇を噛み、それから小さく「……わかったわよ」と呟いてブリッジを後にした。
*
数時間後。
レインストは、ナナに配給用の栄養剤を届けるため、彼女の個人個室の前に立っていた。
インターホンを鳴らすが、返事がない。
「おい、お嬢様。生きてるか? 入るぞ」
手動バイパスでドアロックを解除し、中へ入る。
すると、そこには信じられない光景が広がっていた。
ベッドの端に座り込んだナナが、髪をボサボサに乱したまま、一本の『栄養剤のアルミボトル』と壮絶な格闘を繰り広げていたのだ。
「くっ……! どうして、開かないのよ……! このネジキャップの構造、摩擦係数と人間の握力の平均値を鑑みれば、私の右手だけでも十分に回せるはずなのに……!」
ハアハアと息を荒らげ、涙目でボトルを睨みつけるナナ。
その白く細い指先は真っ赤に染まり、ボトルのキャップには滑り止めの溝の跡が無数についている。
宇宙の絶対座標を脳内で弾き出し、光速の一・三秒をアジャストした超天才美少女が、たった一本のボトルのキャップに完全敗北していた。
「……おい、何やってんだお前」
「ひゃああっ!?」
レインストの声に、ナナは飛び上がるようにしてボトルを背後に隠した。
だが、すでに遅い。
「み、見ないで! 今のは……その、ボトルの初期不良よ! ネジ山が物理的に噛み合っていないバグよ!」
「貸してみろ」
レインストはため息をつき、隠そうとするナナの手からボトルを奪い取った。
そして、その無骨な親指と人差し指でキャップを挟み、少しだけ力を込める。
カチッ、とあっけない音を立てて、キャップは簡単に回り、甘い香りのする液体が顔を覗かせた。
「ほらよ。お嬢様」
「う……うぅ……」
ナナは恥ずかしさのあまり、レインストの防寒ジャンパーの襟元に顔をうずめるようにして、小さく丸まった。
「私は……計算なら、どんな宇宙の真理だって暴けるのに。どうして、こんな簡単なことができないのかしら……」
完璧なエリートとしての仮面が完全に剥がれ落ち、そこにあるのは、世界で一番不器用な少女の、むき出しの弱さだった。
「いいんじゃねえの。お前ができないことは、俺が全部バイパスしてやるよ」
レインストは無骨に、だが優しくナナの頭をぽんぽんと叩いた。
「ボトルを開けるのも、船を操縦するのも、全部俺の仕事だ。お前はただ、俺の行く先を指差してりゃいい」
「……レインスト」
ナナはジャンパーの袖をぎゅっと握りしめ、濡れた瞳で彼を見上げた。
この男がいなければ、自分はボトル一本すら開けられず、宇宙で生きていくことすらできない。
「……じゃあ、約束よ。絶対に、私のそばから離れないでね」
絶対の理論を持つ女神が、一人の泥臭い技術屋に、完全に魂の錨を下ろした瞬間だった。(第9話に続く)




