第6話:一・三秒の神様(光速のアジャスト)
船底から響くのは、旧時代の化石が放つ、粗野で暴力的な重低音。
「レガシーロケット、マウント完了! 物理接続、正常!」
アミィが叫ぶと同時に、コントロール・コンソールの数値が狂ったように跳ね上がった。アーク・クラスの機体が、まるで巨大な怪獣の胃袋に放り込まれたかのように激しく震動し始める。
「よくやったアミィ! だが……お嬢様、コンソールの同期エラーが消えねえぞ! 地上側の安全装置が点火を拒否してやがる!」
レインストが計器を叩きながら声を荒らげた。
ナナの端末と地上の管制プロトコルは、アミィの手によってPATHが繋がっているはず。それなのに、点火シーケンスの直前でシステムが「異常検出」を告げる真っ赤なエラーを吐き出していた。
「エラーではないわ……! これは、物理的な『光速の壁』よ!」
ナナはレインストに背後から手を握られたまま、前髪を振り乱して叫んだ。
彼女の目の前のモニターには、信じられないほどの膨大なデータが展開されている。
「地球と月を往復する通信遅延——片道約一・三秒。月管制のPATHを経由しているせいで、地上の自動システムが『一・三秒前の信号』を異常と判定しているのよ!」
一・三秒。
人間にとっては一瞬に過ぎないその静寂が、宇宙の速度においては、生と死を分かつ致命的な断絶となる。
一・三秒のズレがある限り、化学燃料という暴力的な爆発を、アーク・クラスの近代的な電子頭脳で制御することは絶対に不可能。システムは安全のために、ロケットを強制的にパージ(切り離し)しようと動き始めていた。
「くそっ、あと数秒でロケットが引き剥がされる! そうなれば重力圏を脱出する推力は永遠に失われるぞ!」
「ダメよ! この船には、地球上のすべての生命誕生の起源となった『地球元素カプセル』が積まれているの! サピエンスが遺した、新世界で生命を創世するための唯一の『種』よ! これを置いていくわけにはいかない!」
ナナが涙目で叫ぶ。
彼女の脳内メモリがパンクしかけていた理由が、レインストにもようやく理解できた。
彼女はただの監査官ではない。滅びゆく地球から、数億年の未来へと生命を繋ぐ「創世の片道切符」を一人で背負って降下してきたのだ。
その重すぎる使命のせいで、自身の帰還用燃料というあまりにも単純な重さの計算を、脳が弾き出してしまっていたのだ。
「……ハッ、そいつは重たい荷物だな、お嬢様」
レインストは不敵に、獰猛に笑った。
ナナの手を包む男の手に、さらに力がこもる。
「一・三秒の遅延がノイズだってなら、お前のその『超天才の脳みそ』で、時間をねじ曲げやがれ!」
「時間を、ねじ曲げる……?」
「一・三秒先の未来を逆算して、先回りの嘘の信号を地球に送り続けろ! タイムラグがゼロになったと、地上のシステムを騙して(ハックして)みせろよ!」
ナナの瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
一・三秒先の未来の同期信号を、現在から常に送り続ける。それは、完璧な美しさを好む彼女の理論においては、あまりにも不確定で、あまりにも狂気じみた予測制御だった。
だが。
「……やってやるわよ! 私の頭脳を、安易な数式で縛らないで!」
ナナの脳細胞が、限界を超えて超稼働を始める。
彼女の脳内で、宇宙の距離、光速の壁、そしてアーク・クラスの物理的摩擦が、リアルタイムの数式へと変換されていく。あまりの脳負荷に、彼女の美しい鼻筋から、一筋の紅い血がたらりと伝い落ちた。
だが、その瞳は、絶対の神の如き冷徹な輝きを放っている。
「一・三秒先の未来の座標、予測同期完了! ダミーPATH、地球に向けて……送信!!」
「アミィ、バルブを開けろ! レガシーに火をつけろ!!」
「点火シーケンス、同期しました! いっけええええええええ!!」
アミィが悲鳴のような声で、物理スイッチを叩きつける。
一・三秒のラグを、ナナの脳がアジャストし、レインストの手技が現実のバイパスへと叩き込んだ。
完璧に噛み合ったその瞬間——。
ズドォォォォォォン!!!
ブリッジの全員の視界が、真っ白な加速重力(G)に押し潰された。
チョモランマ宇宙港の地下ドックで数十年間眠っていた化石ロケットが、その巨大な質量を地球の引力から引き剥がすべく、蒼く荒々しい炎を大気圏へとぶちまけたのだ。
「あ、はは……! 飛んで、る! 私たち、重力を振り切ってるわ!」
加速の衝撃でシートに縛り付けられながらも、ナナは歓喜の声を上げた。
その視線の先、メインモニターには、急速に遠ざかっていく青い地球の湾曲が映し出されていた。
アミィは、自分の手元にあるPATHのインジケーターを見つめていた。
それは、レインストの手と、ナナの指先が完全に一体となって生み出した、奇跡のような同期グラフを描いている。
(……ああ、やっぱり)
アミィは胸の奥で、静かに、そして晴れやかに悟っていた。
私には、あの二人の「一・三秒の未来を共有する領域」には、一生入れないのだと。
轟音を立てて、アーク・クラスは雲を突き抜け、漆黒の宇宙(重力圏外)へと躍り出た。(第7話に続く)




