第5話:重力圏外のハッキング(共犯者たちの手つき)
新造航宙船アーク・クラスのブリッジは、おそろしく冷えていた。
まだ人類を乗せて飛び立つ前の、まっさらな機械の匂い。
空調が吐き出す乾いた風が、張り詰めた沈黙をゆっくりと撫でていく。
「——これでよし! 地上側の自動管制プロトコル、完全ロック完了!」
コンソールのサブシートに座るアミィが、キーボードを叩く指を止めて大きく息を吐いた。彼女の傍らには、チョモランマ宇宙港から文字通り「命がけで引っ掴んできた」個人端末が、アーク・クラスのメイン基盤と太い有線ケーブルで繋がれている。
「私の全権限(PATH)を、ナナ様、あなたのコンソールに同期させました。……これで地上のチョモランマ宇宙港は無人化され、私たちの命はすべて、ナナ様のその端末に預けられたことになります」
「……ええ、完璧な同期よ。お疲れ様、アミィ」
メインコンソールの前に立つナナが、小さく頷く。
ルナ・セクター監査官仕様の洗練された制服はわずかに着崩れ、先ほど個室の緊急閉鎖から救出された際にレインストから押し付けられた、ぶかぶかな防寒ジャンパーの袖を未だにきつく握りしめたままだ。
だが、ナナの視線がコンソールの「地球重力圏離脱シミュレーション」の数値に落ちた瞬間、その完璧な美貌が引き攣った。
「……嘘。どうして……? 推力比率が、足りない……?」
「あん? 何が足りねえって?」
コンソールの下部に頭を突っ込み、スパナとハンディ・ターミナルを手元に這わせていたレインストが、煤だらけの顔を這い出させた。
「軌道補正の燃料が足りないのよ! アーク・クラスの自重と推力の計算が、どうしても合わない……。地球の重力圏を振り切るための、第一宇宙速度に達する前の段階で、燃料が空になる……っ」
「はあ!? お前、宇宙の絶対座標を脳内で逆算できる超天才監査官様じゃなかったのかよ!」
「うるさいわね! 私は『地球滅亡の数式』を解くために脳の演算を極限まで圧縮して、最短・最速で地球に降下するための重力スイングバイを計算したのよ! だから、その——」
ナナは防寒ジャンパーの袖で顔を隠すようにして、蚊の鳴くような声で言った。
「……地球から『再び脱出して帰るため』の燃料(自重)なんて、そんな泥臭くて野蛮な物理質量、私の美しい数式に組み込む必要性を感じなかったのよ……!」
「要するに、自分の帰りの燃料計算を忘れたポンコツってことだな!?」
「ポンコツって言うなーーー!」
絶叫するナナ。
だが、事態は一刻を争う。地球滅亡のカウントダウンは進んでおり、このまま燃料不足で打ち上げれば、アーク・クラスは宇宙に出る前にチョモランマの地表に叩きつけられて鉄屑になる。
「……ねえ、二人とも。ちょっといい?」
青ざめる二人を前に、アミィが通信用の端末画面を提示しながら、すっと手を挙げた。
「だったら、あの化石を使えばいいんじゃない? まだ地下のドックに、退役したレガシーロケットがマウント状態で眠ってるはず。地上のシステムが自動化されてる今なら、ここから強制起動できるわ」
「レガシー……化学燃料ロケットだと!?」
ナナが嫌悪感を示すように眉をひそめた。
「あんな原始的な爆発推進、私の軌道計算に組み込めるわけがないわ! 計算外の摩擦と振動で、船体が空中分解する!」
「いや、アミィ。お前、最高だ。頭の固いエリート様には思いつかねえ現場の知恵だな」
レインストが不敵に笑い、ナナの背後から一歩踏み込んだ。
「レ、レインスト……?」
「お嬢様。その完璧な脳みそがどんなに美しい超空間座標を弾き出そうがな、現実のボロ船を動かすのはいつだって、泥臭い爆発なんだよ。——手を貸せ」
「ひゃ、ゃっ……な、何を——」
拒む隙も与えず、レインストはナナの冷え切った右手を、自身の無骨な手で後ろから包み込んだ。
ナナの体がびくりと跳ねる。だが、レインストはその細い指をキーボードに固定し、手のひらの熱で彼女の震えを無理やり抑え込んだ。
「アミィ! レガシーロケットの点火PATHを、ナナのコンソールに直列でバイパスしろ!」
「了解! PATH同期、送ります!」
アミィがキーを叩くと同時に、ナナの画面に地上からの接続信号が滑り込んできた。
「さあ監査官様。お前の完璧な脳みそで、この野蛮な化学ロケットの推力を現実にアジャストしやがれ!」
レインストがナナの指先を優しく、だが力強く誘導し、物理エンターキーを『強引に』叩きつけさせた。
——その瞬間。
船体の底から、歴史の遺物が目覚めるような、すさまじい重低音の地鳴りが響き始めた。(第6話に続く)




