第4話:二人の計算、二人の航路
「……ここが、アーク・クラスの心臓部よ」
レインストの防寒ジャンパーの裾を掴んだまま、ナナは巨大な防壁をくぐり抜けた。
天井高十メートルを超える全天周ホログラムスクリーン。
無数の緑色の数式と軌道予測線が、夜空の星々のように瞬き、少女のプラチナブロンドの髪を冷たく染め上げている。
「凄いな。ルナ・セクターが予算を注ぎ込んだだけはある」
「当然よ。この船の自動航行システムは、私の脳内テンソル計算と完全に同期する設計になっているわ。サピエンスの最高知性が操縦して初めて、一八〇〇光年の跳躍は成功するの。……でも」
ナナはふっと、端末の画面を見つめたまま、その長い睫毛を伏せた。
画面の隅で、無数のエラーログが、まるで警告灯のように赤く明滅している。
「やっぱりおかしいわ。どれだけパラメータを修正しても、自動補正プログラムが、特定の『定数』を前にすると完全にフリーズしてしまう。……まるで、この宇宙の物理法則そのものが、私たちに行き先を制限しているみたいに」
ルナ・セクターの最高天才である彼女が、どれだけ計算しても解けないバグ。
孤独な数字の迷宮に取り残されたナナの肩が、微かに震える。
その時、ナナの端末を、レインストが無造作に横から覗き込んだ。
「なぁお嬢様。その画面の、右から三番目のバイパスデータ。ちょっと弄らせろ」
「な、何言ってるのよ。これは最高機密の多次元数理モデルよ!? 現場の技術者が勘で触っていい領域じゃ――」
言いかけるナナの手を、レインストは力強く、しかし驚くほど優しく包み込んだ。
そのまま、彼女の指をナビゲートするように、ホログラム上の「歪んだログ」を直接スライドさせていく。
「おい、そこは熱対流の……あ」
レインストの指が触れた瞬間。
狂ったように赤く点滅していたエラーコードが一斉に弾け、美しいサファイアブルーの正常信号へと書き換わった。
ブリッジ全体のホログラムが、一気に滑らかに加速し始める。
「嘘……! 熱力学的テンソルのエラーが、一瞬で消えた? どうして……あなたの泥臭いバイパス制御の数値が、私の多次元数理モデルの『空欄』と、こんなに完璧に噛み合うのよ……!?」
ナナは呆然と、自分の手を重ねているレインストの顔を見上げた。
計算機は壊れても、レインストの「現場の指先」は、ナナの理論が届かない暗闇のバグを完璧に撃ち抜いてみせたのだ。
「言っただろ。お前の足りない計算は、俺が埋める。お前が大天才の頭脳なら、俺はその頭脳を現実に繋ぐ最強の足回りだ」
レインストはニッと不敵に笑い、重ねていた手を離した。
だが、ナナの指先には、まだ彼の手のひらの圧倒的な熱が、消えない刻印のように残り続けている。
「……ずるいわ」
ナナはジャンパーに顔を半分うずめ、蚊の鳴くような声で呟いた。
数字しか信じられなかった。誰も自分の領域に追いついてこられなかった。
なのに、この無骨な航宙士は、当然のような顔をして自分の世界の中心に踏み込んでくる。
「私の完璧な数式に、あなたっていう、最大級の予測不能が混ざっちゃったじゃない……」
「光栄だな、お嬢様。じゃあ、そのノイズを乗せて、そろそろ宇宙の果てまで行く計算を始めようぜ」
前を向くレインストの背中を、ナナはもう、一瞬たりとも見失うことができなかった。
彼女の脳内テンソルは今、レインストという唯一無二の存在を、絶対的な中心として再計算し始めていた。(第5話に続く)




