第3話:エリートお嬢様の生存戦略
「……く、屈辱だわ」
チョモランマ宇宙港、アーク・クラスの居住区画。
支給された個室のベッドに突っ伏し、ナナは枕に顔を埋めて足をバタつかせていた。
脳裏に焼き付いているのは、先ほど自分を救った無骨な航宙士――レインストの、あの不敵な薄笑いだ。
「ルナ・セクター首席卒業のこの私が、現場の、あんな数式も使えないような野良の技術者に助けられるなんて……! データの凍結命令を出す前に、私のプライドが凍結しちゃうわ!」
ふんぬ、とベッドから起き上がり、乱れたプラチナブロンドの髪をかき揚げる。
まだ負けたわけではない。
あのアーク・クラスの構造データ、および宇宙港の全管理権限は、自分の端末に同期されている。デジタル領域の勝負になれば、現場の職人技など何の意味も持たないことを教えてあげる。
「見てなさいレインスト。今すぐあなたたちのシステムを完全統括して、主導権を取り戻して――」
意気揚々と、マイルームの自動ドアに向かって歩き出した、その時だった。
スカッ。
「――ひゃんっ!?」
また、やった。
ルナ・セクターの無重力フロアに慣れきっていたナナの脚は、地球の重力、そして居住区のわずかな傾斜に対応できなかった。
完全にバランスを崩し、今度は部屋の壁に設置された緊急用備品ラックへ頭から突っ込む。
ガラガラドシャァァァン!
「うう……痛い……おのれ地球の重力加速度九・八……!」
おでこを押さえて涙目になるナナ。
だが、悲劇はそれだけでは終わらなかった。
彼女の衝突によって、部屋の自動ドアの制御パネルが物理的にバキリと叩き割れてしまったのだ。
バチバチッ! と火花が散り、重厚な隔壁が完全に閉鎖される。
部屋の明かりが消え、非常用の薄暗い赤色灯だけが灯った。
「え? 嘘……開かない? システムハック……じゃなくて、物理的な接触不良!? ちょっと、私の端末からドアのプログラムを書き換えても、配線自体が焼き切れてたら意味がないじゃない!」
どれだけ脳内で高度なテンソル計算ができようが、閉じ込められた鉄の部屋から自力で脱出する筋力は、彼女にはない。
しかも、最悪なことに室内の生命維持装置が停止し、チョモランマの容赦ない極寒が室内に侵入し始めていた。
三分もすれば、指先が凍えて端末の操作すらできなくなる。
「だ、誰か……! 誰か開けなさい! ルナ・セクターの監査官よ! 閉じ込められたわ!」
ガンガンと冷たい鉄の扉を叩くが、返事はない。
宇宙港の管制オペレーターである幼馴染の女――アミィとかいう地味な少女の声すら、無線からは聞こえない。全員が外の熱炉の修理に追われているのだ。
(寒い……。凍死する……。首席の私が、こんな間抜けな自爆で死ぬの……?)
ナナは膝を抱え、ガタガタと震えながら床にうずくまった。
数字は裏切らない。だが、数字は今、この部屋の温度が氷点下に達するまでの冷酷なカウントダウンしか教えてくれない。
絶望に瞳を潤ませ、ナナがぎゅっと目を閉じた、その瞬間。
ギシャァァァァァァァァン!!
鼓膜を震わせる金属音が響いた。
最新のレーザーカッターではない。泥臭い、巨大なバールのような鉄の工具が、強制的に隔壁の隙間にねじ込まれ、力任せにドアをこじ開けたのだ。
逆光の中に、シルエットが浮かび上がる。
肩に巨大なレンチを担いだ、あの憎たらしい男だった。
「よお、お嬢様。何してんだ、こんな暗いとこで」
「レ、レインスト……っ」
レインストは部屋に踏み込むと、震えているナナの肩に、自分が着ていた分厚い防寒ジャンパーをドサリと引っ掛けた。
男の体温と、オイルの臭いが混ざった圧倒的な熱が、ナナの身体を包み込む。
「部屋の隔壁エラーが出たから見に来てみれば……お前、自分でドアの配線ぶっ壊したのか? 大天才のやることは格が違うな」
「ち、違うわよ! これは、その、不可抗力的な確率論の収束で――」
「はいはい。お前、俺がいないと一歩も歩けねえだろ」
レインストは呆れたように笑い、ナナの華奢な手首を掴んで、強引に立ち上がらせた。
いつもなら「無礼よ!」と撥ね退けるはずのその手の平の熱さを、今のナナは、どうしても拒絶することができなかった。
「……私の計算には、あなたのそんな野蛮な行動力、入ってないわよ」
「だろうな。だから、お前の計算の足りない分は、俺が身体で埋めてやるよ」
ぶっきらぼうに言い放ち、前を歩くレインスト。
ナナは彼のジャンパーの袖をきつく握りしめ、赤くなる顔を隠すように、その後ろを付いていくしかなかった。
(なによ、なによアイツ……! でも……アイツがいないと、私は……)
ナナの脳内に、冷酷な「数字」以外の、熱い感情のコードが書き込まれた瞬間だった。(第4話に続く)




